絵について、なんか言いたいことが出来たので、なんか語ります。
ド下手糞のニートが、語ります。
デジタルでしか絵が描けない人が増えているという。(都会では)
デジタルのお絵かきツールで絵を描くことに慣れすぎて
アナログで描こうとしてもさっぱり描けない人が増えているらしい。(都会では) これが「事実」だとするなら、それに反発する必要あるか?という気がする。
もしも
「自分はアナログで絵が描けません」というのなら、
そこはもう、猛省したり、忸怩たる思いで生きていくしかないのではないか?
自分はそう思っている。
一方自分は、アナログでもちゃんと描けるつもりなんだ。
むしろ、アナログの方が上手くかけると思っている。(これは今現在絵が下手糞な言い訳でもある)
(その変身を あと2回も オレは残している… その意味がわかるな?的な)
だから自分に言わせれば、
「アナログで絵が描けない人」というのが、ちょっと「信じられない」のだ。
(「存在」を信じないのではなくて、その「姿勢」が信じられない)
というか、そういう人達は子供の頃、何をしていたの?
教科書とかノートにラクガキしたりしなかったの?自分はしてたぞ。少しでも紙に余白があったら、そこはもうラクガキのフィールドだった。
自分にとって「授業中」というものは、
「先生の顔をクロッキーするために与えられた猶予期間」だった。だから自分のノートも教科書も、殆どお絵かき帳と区別はつかなかった。
それぐらい、するもんだろ?
そういうことが、
「絵が好き」ってことじゃないのか?
リアルで紙にペンを走らせる喜び、そのどうしようもない「衝動」それを知らない、出来ない、
そういう練習を自発的にやってこなかったのに、「お絵かきが好き」なんて、のたまえる人間がいるのか?
こういう話になると、なぜか自分は急に
アナログ志向になってしまう。
普段は、
「脳で直接絵が描ける様な装置ができないかなぁ~」とか言っているのに、だ。
だがコレに関してもちょっと考えてみよう。
「脳で直接絵を描く装置」とは、いかなるものか?
頭の中で画像を思い浮かべれば、それがそのままプリンターのようにウネ~っと印刷されるのか?
「脳の中にある画像イメージ」というものは、そのまますぐにひり出せるものだろうか。
そこにあるべき「具体的な線の動き」はどうなっている?
入り抜きは?太さは? それら線の一本一本まで、全て事前に、完璧に、しっかりイメージできているか?そのへんを、ちょっといっぺん本気で「想像」してみてほしい。
・・・
多分、線というものは、自力でなぞらなければならない。
絵というものは、多分
「出力と入力」それらを交互に行いながら、その相互作用によって完成するのだ。(ここでいう「入力」とは「実際に自分が引いた線」を見て、それが次の線に「フィードバックされる」という意味)
(いや、自分自身も、脳内の画像イメージの鮮明さには自信がある)
(かなり鮮明な画像データが「そこ」にはあるような気はしている)
(2Dデータにかぎらず、頭の中で3Dモデルをクルクル回したり、
パースの強弱を自由自在に付けることも、出来るつもりだ)
でもやっぱり、頭の中に浮かべるだけの画像イメージでは、
そういった「出力と入力の相互作用」という過程を経て完成する絵には「叶わない」気がするのだ。
だから、仮に、無限の未来に、
「頭の中でお絵かきが出来る装置」などが出来たとしても
それは今のお絵かきツールや、紙とペンと根本的なところでは変わらないモノ、
線を自力でキャンパス上に一本一本引いていくところから始まるモノになるんじゃないか。そんな気がしているのだ。
そして、そのようなものなら結局、
リアルで紙にペンで線を引く時の「力」が多かれ少なかれ必要になってくると思うわけだよ。
(極論すると、「脳で直接絵が描ける装置が出来たとしても、絵が下手な奴は下手なママ」ということ)
つまり、どこまで行っても
「紙にペンで線を引く」という、力、コツ、喜び、衝動、本能・・・
そういうモノは必要だし、最も重要だと思っているのだ。
(たとえ、デジ絵であっても)
(たとえ、脳内出力なんてものが出来たとしても)
これを蔑ろにしている奴が、楽しく絵が描けるはずがない。(そう決めつけた)
リアルで紙に線を引く喜びを知らない奴が、本当にお絵かきが好きなはずがない。(そう決めつけた)
「本気で好きかどうか」というのは重要だ。
「好きこそモノの上手なれ」 VS 「下手の横好き」ことわざ同士でバトルさせるのは好きだが、
どっちにせよ「好きじゃなきゃ話にならない」のだ。(自分は自分の絵が下手だとは思っているけど、
「お絵かきが嫌いだ」なんて言ったことは、一度たりとて無いぞ)
だから、自分はそういう人間にならないためにも、
アナログの練習はいっつも裏でしているのだ。
(そういうのはスキャナが無いのでブログには貼れない)
さて、上の話の中では、
むしろデジタルとアナログを一緒くたにしている部分もあるかもしれない。
どちらも、
「線を一本一本自力で引いていること」に違いはない、と。
だから、別にいいではないか。
そう思うかもしれない。
(いや、自分も元々はそういう考えでいたんだけど)
(だからこそ、「アナログで全く描けない」ってどういうことだ?と思ったんだ)
(だって普通は、
アナログ>デジタルなんじゃないのか?)
じゃあアナログとデジタルの何が違うかというと、
やはり補助ツールとしての便利さだ。
アンドゥ・リドゥ
消しゴム (これはリアルにもあるが)
左右反転・回転・縮小拡大
自由変形
色調補正
レイヤー
加算、減算塗り、なんてのも現実じゃ出来ない話だ・・・こういうのが、「補助」になっているわけだ。
つまり、
「アナログで絵が描けない人」というのは
それ即ち
「こういう便利機能が無いと絵が描けない人」ということなんじゃないのか。
アナログ・デジタル間で「線引きの喜び」に貴賎が無いというのであれば、違いはここしかない。
そしてやっぱりそれは、何かがダメなんじゃないか、と思う。
確か前に自分は
「弘法筆を選ばず」ということわざを否定したと思う。
(その文脈は多分、
「自分は弘法ではないと思うからこそ、道具は選ばねばならない」という感じ)
でも、それとこれとは矛盾しないつもりなんだ。
自分がどういう点で下手糞なのか、理解しなければならない。
自分がどういう便利ツールによって、マシに見せてるだけの存在なのか、知っておかなければならない。でなけりゃ、向上なんてできないからだ。
向上心のないやつは馬鹿だ。
「便利ツールで自分の下手な部分は誤魔化せるから、ここは苦手なままで良い」なんて考えで、
生きていていいはずがない。
ツールに頼らずに、自分の思った通りの絵を出力できたなら、それが一番の喜びではないか?
だからこそ自分は、
・一発書き感
・クロッキー感
・最低限の線感
・躍動感・スピード感
・下書きなし感そういうのを大事にしたいと思っているのだ。
(そして、そういう
「地力」は、紙の上じゃないと培えないのではないか、と)
まぁ今の自分が思っていることはそんな感じ。
どっかに大いなる矛盾があるかも知れないけど、知らん。
というか、最近になって、特に
紙の上によくラクガキをするようになったのだ。
で、また性質が変わり始めているかもしれない。
(人から見れば、何も変わってないように見えるかもしれない)
こういう変化も、
アナログでなにかやってるから、それが反映されるのだ。そう思う。
実際の紙に絵を描いてると、
ペンタブでアタリ考えてる時では思い浮かばないようなインスピレーションが出る、気がする。
(こういうのがそもそものアナログ志向に繋がるのだ)
で、こういうラクガキラフが増えていく。 いつかちゃんと描く。
(↑下手糞な奴の特徴)