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ブログの読者なんて一人いれば十分論

 
前回ああいうことを書いたのだが
逆のようなことも考える。


何がどう「逆」なのか。 自分の中にある「他人の軽視」みたいな事にたいする「逆」である。


この話は次の「自作パラドックス」にも並べようと思っているのだが、
「ある考え方」をすると、突然「他人というモノの凄まじさ」というものを再認識しやすくなるのだ。
(別にそんな回り道しなくても分かる人は分かるんだろうが)


ツイッターの「真のフォロワー数」は一人程度にしかならないというパラドックスである。


今回の内容はマジでポエムです。 ポエム注意




 

そのパラドックスとはこんな感じの考えである。


◆「真のフォロワー数」は増えないというパラドックス


(まぁツイッター的な話だが)
「真のフォロワー数」というものを考える。


「真のフォロワー数」とはなにか? どのように計算するのか?


それは、誰かにフォローされたとき、
「その人のフォロー人数の逆数を加算していったときに計算される数値」とする、という発想である。


言い換えるなら、「人の傾聴率」のようなモノである。



例えば、ツイッターやってて誰かに新しくフォローされたとしよう。
その人のプロフィールを見に行くだろう。

そこでだ、
もしも10000人とかフォローしている人に 新しくフォローされてたとしても、
あんま嬉しくないだろう。




その人にとってあなたは「一万人の中の一人」でしかないし、
その人の、一万人のつぶやきが洪水のように流れるTLの中の、たった1つのアカウントにしか過ぎないのだ。



だから、あなたの注目率は「一万分の1」増えた程度のことでしかないということである。


そういうことである。


だから、ツイッターの真のフォロワー数というのは、
そこに表示されている数字ではなくて、
フォロワーさん毎に、following数で割った逆数を加算していったモノの方が相応しいのではないか?
という考えだ。


(そんなこと考えてどうするんだ?と思うかもしれんが)
(いや別にその数字を算出して競い合わせようとか そういうつもりではないのだ)

(でもさぁ、こういうことって考えないか? 思いつかないか?)
(実際問題、フォロー数が多いだけの人にフォローされても嬉しくない感覚ってあるだろう?)
(その感覚の正体をつかもうとするときに、こういうこと考えないか?)



でまぁ、この何の訳に立つのかわからない考え方だが、
こっから派生して、面白いことが見えてくるのだ。 



こういうことを考え出すと、実は、「傾聴率」というのは いくら頑張っても1くらいにしかならないのではないか?という
奇妙な疑問が湧いてくる。
(この奇妙な感覚を、今回はパラドックスと呼んでいるだけなのだが)


これが面白いのだ。


実際、全ユーザーの傾聴率の「平均値」というのを計算すれば、 それは1にしかならないだろう。


ツイッターで平均の真のフォロワー数を計算すると1にしかならない図


例えばこの場合、
4人フォローしてる人と、2人フォローしてる人と、一人フォローしてる人の
3人にフォローされた場合、「真のフォロワー数」
0.25 + 0.5 + 1で、1.75人に注目されている、ということである。


(そしてその真のフォロワー数のユーザー全員の平均は、見事にとなっているのだ



ツイッターをやる人がいくら増えようが、これは増えない。


「そりゃそうだ 割ってるんだから平均はそうなるだけのことだ」
「割るとはそういうことだ」と思う人もいるだろう。


だが、やっぱりこれは面白い事実ではないか?



「傾聴率」という概念、「フォローしている人数で割るべき」というのは当然な発想だろうし、
(数万人フォローしてるような人に新しくフォローされたときの嬉しくなさについて考えよう)
絨毯爆撃フォローなんかやってる奴は、他人なんか見てないのだ そんな奴から得られる注目度は0に等しい)


そしてその傾聴率というモノの全ユーザーの平均というのを出すと、
それがどんな関係性だろうと
(フォロー数0のユーザーを除外して考えた場合)

平均の傾聴率というのは1にしかならないという事実。



ツイッターのユーザー数がいくら増えようが、減ろうが、

いくらフォロワーが増えようが、減ろうが、

(フォロワーが増えていく=
 フォローのネットワークが過密化していくということは、大量フォローしてるユーザーが増えていくということであり)
(その分、一人あたりの注目度というのは下がっていくから・・・)

いくらツイッターが流行ろうが、廃れようが、

傾聴率というのはだいたい1にしかならない。
つーか平均すれば1である。




この事実。


こういうことについてずーっと考えていくと、なにか感じてこないだろうか?

(「一人の人間」が、「誰か」に注目する、「その配分」を奪い合ってるだけな感じ?)


自分は感じる。見えてくる。


人間というのは、結局、一人の人間に注目されればそれで十分なんじゃないか?という感覚だ。


そして逆の立場を想像してみたとき、
「自分」というモノの凄まじさについて再発見するのだ。



自分が誰かに注目するって、考えてみたら凄いことだよなぁ」って思うのだ。


誰かをフォローする

何かをブクマする

何かにコメントする

何かをふぁぼる

何かを読む

何かをダウンロードする
・・・


全部全部、本当は、凄いことなのだ。

「自分」がやることを考えてみると、本当に一人分の重みのある行動なワケだ。


自分的に一番わかりやすく例えるとしたら、pixivだなぁ。


自分は、そんなにpixivで絵をブクマしたりはしない。

仲間同士の新着の絵を社交辞令でブクマしあうとか そんなことはしない。 それは駄サイクルだ。

絵は、自分で検索して、その時本当に気に入った絵があったら、ブクマする。 そんだけだ。

そういう風なスタンスでやっている。



だから、自分の1ブクマ、1userって、結構凄いことだよなぁと、 
自分がやるときのことを考えてみると、 つくづく思い知るのだ。




たとえ 1userでも、1userは凄い。


だって、「自分が」やってるんだぞ? (ここ変な読み方しないように)(ここでの自分は、英語のyouみたいな代名詞だと思ってくれ)

他ならぬ「自分が」、ブクマしようと思って、したのだ。

かけがえのない1userだ。


それなのに、
ともすると人間というものは
(自分もpixivに絵を投稿する立場から言わせて貰うと)
絵を投稿して
ブクマが1桁だと、少ないだとか、反応が無いだとか、恥ずかしいだとか、消そうだとか、

そういう気分になることは、普通にありうることなのだ。。



やはりこれはどう考えても、

画面の向こう側に 他ならぬ「人間がいること」 
「"自分様"が そこにも 「いる」ということ」

そういうことを忘れてしまっているからだと思うのだ。



その1ブクマをした人だって、自分とおなじく、この、凄まじいまでの「自分様」の持ち主なのだということ。

そのことを再認識すれば、例え1userの絵だって、 ブクマが少ないから削除しようなんて、思わない筈ではないかと。



・・・なんか、そういうことを思うようになるときがあるのだよ。


これは全てのことに言える。


ネットの向こう側に

画面の向こう側に

全て一人ひとりの"自分様"がいるということを考えてみれば、

それは本当に凄いことだ。



自分は、 誰かのブログにコメントつけることなんて滅多にない。 マジでない。 
数年に一回、よほどのことでも無い限り、他人のブログにコメントなんて、付けた記憶がない。

そのことを考えたなら、自分のブログにコメント付けてくれる人は、本当に凄まじいまでにありがたい存在のように感じる。



自分は、定期購読しているようなブログなんて殆どない。
つーかそういう面白い個人ブログを知らない。 なんか面白いブログがあったら教えて欲しいもんである。

そのことを考えたなら、「ブログいつも読んでます」なんて言ってくれる人がいるなんてことは、

もう、何時死んでもいいくらいのありがたいことなのではないのか?と。 そんなことを思う。


なんかもう、「ちゃんと読んでくれてる人」が一人でもいるのならば、
ブログはそれだけでやる価値があるような気がしてくるのですよ。



ツイッターで何百人にフォローされようが、
そんなのは「一人分の傾聴率」を稼げているかどうかもあやしいものである。

そういう考え方をすると、逆説的に「一人分の重さ」というのが見えてくる。


「一人分の注目」というのは、逆の立場で考えてみると、とてつもなくかけがえ無く、重いものであることが分かる。


つまり、
もしも"ちゃんと"ブログを読んでくれているという人が一人でもいるというのならば、
それは、何よりも重要なことではないかと。



これが、自分の思う
「ブログの読者は一人いれば十分論」な訳ですよ。



(人間は、たった一人の人間に愛されれば、それで十分だと思わんか?)
(自分一人が、誰ひとり愛せないことを考えれば)



・・・
まぁそういうことですよ。




「自分」というモノの凄まじさ。


その凄まじさを考えれば、
「自分が」何かに注目する、「自分が」何かをお気に入りに入れる、「自分が」何かを読む、
・・・
そのような全ての行動の一つ一つの「重み」というのがあらためて分かるような気がする。



そういう風なモノの考え方も、やろうとすれば出来るはずだよなぁということを、思ったりする時もあるのですよ。
一応、自分も。



前回あんだけ失礼なことを言ったりもしてるが、 精神状態が逆のときは、
こんなことを考えてたりもします、ということです。


でもまぁこれは自分の中でも ちと気色悪い幻想であるような自覚もあるので、
どうなるかは分かりませんね。


関連記事
[ 2016/12/22 18:43 ] 駄文 | TB(0) | CM(4)
フォロー数なんて500もしたら見るのが追いつかない、見れて300未満 私的には
[ 2016/12/22 23:31 ] [ 編集 ]
コメント返信
> 名無し さん

> フォロー数なんて500もしたら見るのが追いつかない、見れて300未満 私的には



実際、「キャパシティ」のようなものがあると思いますね。


自分もどんだけの人間をミュートしてしまっているかわからないし、
どれだけの人間のアカウントが実質死んでるか分かりませんから、

やはり300人程度? くらいが  追える限度なのかもしれません。


この辺の「キャパシティ」という考え方が抜け落ちているのが、今回の記事の落とし穴ですかね。




つまり人間の「傾聴率」というのが「folling数の単純な逆数」というのは 正確ではないのではないかと。



followingが300人以下の人のフォロー力は1だけど、

300を越えた当たりから、300をfollowingで割った数になるのではないかということです。


例えば、600人をフォローしているひとのフォロー力は0.5になるということです。

(実際、人間が追えるTLの限界が約300人と仮定すれば、)
(その二倍の人数をフォローするということは、)
(だいたいTLの「半分の人のツイートを読み漏らす」ということになるから、)
(300/600で0.5になるという計算です)




でも この考え方を真のフォロワー数の考え方に適応すると、

今度は、真のフォロワー数はだいたい300人が限界、ということになるだけかもしれません。


(結局、他人に割くことができる注目というのが、大体自分に帰ってくる注目 ということかも)

[ 2016/12/27 19:45 ] [ 編集 ]
確かに一人で十分なのかも知れません。でも多くの人が一人だけでは満足できないようです。だからこそ、どうでもいい情報やふざけた動画を撒き散らし、多くの人からフォローをされ勝ち誇ってはいるが、結局本当の意味では誰からも認められていない人たちが増えたんだと思います。なぜそこまでして人は人と繋がることを望むのでしょうか。なんだかんだ生きていれば繋がっていけると思うのですが。それでは満足できないのでしょうか。それが不思議です。
[ 2017/01/01 23:30 ] [ 編集 ]
コメント返信
> 読者B さん


> なぜそこまでして人は人と繋がることを望むのでしょうか。なんだかんだ生きていれば繋がっていけると思うのですが。それでは満足できないのでしょうか。それが不思議です。



実はこのへんの「みんなと繋がりたい」という欲望って
結構薄れていくもんだと思うんですよね。


自分はSNSというものは、全ての人間に対して「倦怠期」を感じれるようになるモノ だと思っています。


他人との距離が近くなりすぎて、結婚してもいないくせに、倦怠期レベルで、他人に対して、飽きたり、うんざりしたり、
もう一気にそのレベルの所にまで行けてしまうのですね。


最初の内は憧れてた人だった筈なのに、ツイッターで見てる内に嫌いになったりする。


そういうことを経験していくと、もうだんだんと他人と自分から繋がりたい!みたいな欲求は弱くなっていくと思うのですよね。




・・・まぁ本当のところで繋がりたいか繋がりたくないかに関しては、
その疑問を突き詰めていくと、

やはり人間が元々は数万年のスパンで、群れで狩りをしたり集団で生活していた生き物だからなのかなぁと思います。


エヴァに「やっぱり、一人で寝るのが寂しいんですか?」という問があります。

その疑問、なんで一人で寝るのなんかが、人間は怖いのか?

それもやっぱ、突き詰めると人間がそういう生物だったから、ということになっちゃうんじゃないかと思ったりもします。



・・・
まぁ色々言ってますが、

SNSで擬似的に
「寂しい」という感情を誤魔化すことが出来るようになったことは、
自分は圧倒的に「よいこと」だとは思っていますけどね。


だって、この本能的な渇望を、技術で誤魔化せるようになったというのは
あきらかに犯罪とかを食い止めてますよw


水木しげるの例の画像を貼りたいところですが、
「モテない貧乏人は気が狂うしかないのだ」


昔の人はそうだったでしょう。

今は、この「モテない」の部分は誰でもSNSで少しだけ誤魔化すことが出来るようになったはずです。

その代わり、気が狂って犯罪者になる人も減っただろうということです。

[ 2017/01/02 18:40 ] [ 編集 ]
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