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自作パラドックス集

 
前回紹介したような感じで、 「自分で作ったパラドックス」集を並べてみる。


でも大したことの無い、単なる疑問、単なる理解不足が招いている「変な認識」みたいなのも結構ある。



だが「パラドックス」とは元々どういう定義なのだろうか?


例えばパラドックスとして一番有名なものに「アキレスと亀のパラドックス」とかがあるが、
あんなのは、「極限」をならった高校生なら簡単に論破できる程度の疑問に過ぎないはずだ。

お前は亀へ追いつく距離を半分、半分に割ってき、
それが無限に分割しつづけられるから到達しないなどと言っているが、、

半分、半分になっていく道のりを通過するために「必要な時間」もまた、半分、半分になっていき、
それは最終的に「時間0」で通過できるようになるのだから、亀は追い抜けるのだと。

・・・
だいたいそんな感じだろう。 (だが緑色の赤ん坊の場合は身長自体が半分になるので・・・)


「クレタ人のパラドックス」だって、「人間はデタラメを書ける」とかでさっとスルーできるだろうし、
「誕生日のパラドックス」なんて、単なる確率の誤謬の話である。



どれくらい難解か
どのくらい結論が自明じゃないか、
どれくらい回答がハッキリしなかったらパラドックス・・・
みたいな定義など、不可能なのではないか?



だから
単に、直感に反する不思議な現象考え込むとよくわからなくなる疑問、みたいなのを思いついたら、
パラドックスってことでメモっておいていいんじゃないか?とか思ったりする。



そんなこんなで、このように「自作パラドックス集」なるものを公開するわけだが、

こういうのは結局 「本人が普段どの程度のことを疑問に思って生きているか」をバラすようなモノなので、
やはり本当は恥ずかしいものなのである。



でもこんな風に、自分の疑問をメモっておいたり、
もしくは自分で疑問をわざわざこしらえたりするのはとても面白いので、
みんなもやればいいじゃんとか思うのだ。

(こういうのを趣味にすると、これは脳みそだけで出来る暇つぶしなので、ある意味折り紙を超えたコスパの趣味になるぞと)



 

自作パラドックス集


ところで、こういう、「モノを並べる系のコラム」が一番書くのかんたんなんだよね。
(突然の清少納言dis)  (枕草子) (「ものづくし」カテゴリって、要はそういうこと)



◆ 真のフォロワー数は増えないというパラドックス


これについて、前回書きました。



◆壊れた時計のパラドックス


「壊れた時計は 日に二度だけ どんな時計よりも正確に 時間を当てるときがある 」
などという。 そういう名台詞を言うキャラがたまにいる  (徳川惑星とか)


たしかに、普通に動いている時計は、ある意味で、「正確に時間を当てる瞬間が一度もないまま」
毎日を過ごしているかもしれない。

そういう意味では、普通に動いている時計よりも止まった時計のほうが正確な要素があるかもしれん。


・・・
いやいやいや


ならば、「逆回転するように壊れた時計」なら、4度も刻むではないか。

「いちおう動いてはるが、前後にブルブル震えまくっている時計」なら、もっともっと正確ではないか。


超高速で振動している時計が、この世でもっとも正確を多く当てられるということにならないか?
HF時計。 HFブレード。


時計の「真の正確度」というのを、「実際の時間の瞬間と一致した回数」のように考えると、
ブルブル震えまくっている見づらい時計がもっとも正確、という風になってしまうがそれでいいのか?・・・というパラドックス。



◆うんこのパラドックス ウンコナ


「うんこの匂いがするということは、鼻の粘膜にうんこから出た微粒子のようなものが付着しているということである。

つまり、うんこの匂いを嗅いだ瞬間、ある意味 鼻にうんこを詰めてるのと同じである


・・・みたいなことを言う人がたまにいる。 痴豚様もこういうネタをたまにやる。



痴豚様はこの現象を 「うんこな」「ウンコナ」「ウン粉」(ユン・ソナのような発音で)
といったりする。


よってこれを 「ウンコナの法則」とでも仮称しよう。



・・・
だがこんな考え方は当然間違っている。

アンモニアとか、
「揮発性物質」の性質について考えれば、すぐ分かるだろう。



・・・・
いやいやいや、
いやだが、その揮発したアンモニアだって、「うんこの一部」だと考えられるし。
間違いなくアンモニアもうんこを構成する要素だったわけである。


つまり、揮発性物質だといって、「ウンコナの法則」から完全に逃れられている訳でもないような気がする。


うんこから抽出したアンモニアを水に溶かしたモノは、「うんこ水」と何が違うのか?
そのうんこ水でそのまま鼻うがいが出来る人間がいるだろうか?


そう考えれば、やはり「ウンコナの法則」は合っているのではないか?


◆人間は飲み物の粒子の何%を味わえているといえるのか?という疑問



◆真空の比熱のパラドックス

(ただの理解が足りない系です)


真空の比熱はどうなっているのか? 高いのか 低いのか

断熱効果があるということは 温まりもしないし 冷えもしないはずだ

熱力学

何かを暖めずに冷えることはない

遮断されているのに冷えることはない

じゃあ真空は冷たくないのか?

じゃあなぜ宇宙空間はほぼ絶対零度ということになっているのか

いや、それとも真空とは絶対零度なのか?

本当に何もないのなら、何も暖まることもなく、冷えさせられることないので、冷たくもないのではないか?


・・・みたいな疑問。


当然、宇宙空間は完全な真空ではないから、冷えるワケだ。 あと放射熱とかもある。



でもまぁ、「真空の比熱」について考え出すとマジで頭いたくなるよね。


ここから、もうちょっと日常で使うような疑問に派生していく、

◆ 冷蔵庫になにを詰めるべきかのパラドックス


冷蔵庫を売っている業者のいうことにゃ、 
「冷蔵庫には適度に開いたスペースを開けると却って電力的にお得ですよ~」、みたいなことを言ってくる。


だが
どうもそれは直感に反するのだ。



「開いたスペースを持たせる」というのは、この場合、冷蔵庫に「空気」を詰めているのとおなじである。



で、水と空気なら、水の方が比熱が低いわけである。

もっと比熱の低いモノといえば「金属」なんかがすぐにイメージできるだろう。


冷蔵庫のなかに、ひんやりと冷えた金属をとろかして、隙間なく詰められている状況を想像してみよう。


そのような冷蔵庫のほうが、中に比熱の高いもの(=つまり空気)で満たしている冷蔵庫よりも、
なんだか「よく冷えているように」思えないだろうか?
(イチイチ開閉のたびに空気が逃げることもないし)



単純に考えて、比熱の高さはこんな感じであろう

空気 > 水 > 食べ物 > 金属


つまり、冷蔵庫の空間の中には、「比熱の高いもの」よりも「比熱の低いもの」で満たしている方が、
冷蔵庫の負担や消費電力は少なそうに思えるのだが、


それなのに、やはり冷蔵庫の業者は、「スペースを開けろ」(つまり空気で詰めろ)ということを言ってくる。



これはどういうことなのじゃ? という疑問である。




なんかこれは、「重い物と軽いものどっちが楽に早くすすむ?」みたいな疑問にも近いかもしれん


◆重い物と軽いものどっちが楽に早くすすむ?のパラドックス


重いモノを押すのは大変である。 だが一度加速してしまえば、あとは手を添えるだけでも勝手に走っていったりするものである。

軽いモノを押すのは簡単である。 だが軽いものは、逆に簡単に減速してしまいやすくもあるので、ずっと押してなきゃならない。


じゃあ、実のところ、「本当に押すのが楽なのはどっちなのか?」という疑問である。



先の冷蔵庫の、 
「冷蔵庫に比熱の高いものと低いものどっちを詰めておくべきなのか?」に近いモノを感じないだろうか?



で、本当に押すのを楽にすべき要素はなんなのかというと、
重いか軽いか云々よりも、道路の摩擦や車輪の性能が全てのように思える。



ということは、この問題について考えてからさっきの冷蔵庫のパラドックスに立ち戻った場合、


冷蔵庫に比熱の高いものと低いものどっちを詰めるというよりも、
冷蔵庫自体の熱の遮断能力が全てなのではないかという気がしてくるのだが、
どうなのだろうか?


◆夜景の密度のパラドックス


ビルに窓明かりが点いている、そんな典型的な夜景を想像してみよう。 
それが地平線までずーっっっと、続いているとする。


地平線の近くの夜景 と、 手前側の夜景
どっちが明るくみえるのか?
という疑問である。

(ほぼ同じようなビルの密度の住宅街がずーっと続いているものとして)



自分が漫画家のアシスタントにでもなったことを想像してみればいい。 
パノラマの、凄く広い視界での夜景を描くことになったときのことを想像すればいい。



ビルの窓の光というのは、地平線のほうが密集しているのか? それとも逆なのか?


ぼくらの

この描き方は漫画家さんによって変わるような気がする。


地平線の周囲ほど明るくなるように描く人もいれば、
手前のほうが明るくなるように描く人もいる。


ビルをビルボード的にとらえてみよう。 (ダジャレ)



普通に考えると、ビルの窓は正面から捉えているわけだから、それが近づこうが離れようが、明るさの密度は変わらないはずだ。

ということは、地平線に近づこうが、手前側だろうが、窓の明かりは「粗さ」だけが変化して、実は明るさは変わらないのでは?

だが、地平線のほうがZ軸的には上下に密集していくんじゃないか?

だがだが、結局前後で重なるから、やはり密度が濃くなるなんてこともないのでは??

いやいやいや・・・という話



割りと結論がでなくて凄い。



しょうがないので実際にサンプルっぽいのを作ってみた。

地平線と夜景の関係

どうも地平線の近くだろうが、一律の明るさにしかならないようである。


あと地平線系だと、

もしも地球が球体ではなくて、無限遠に平面が続いていたとしたら、
その地平線はどのように見えるのか? っていうのもちょっとだけ面白かったりします。


◆シリアルのパラドクス


牛乳たっぷりヒタヒタにしたシリアルと、

牛乳をちょっとしか入れずにカサカサしているシリアル、

どっちが甘いかというと、実は後者のほうが甘いワケだが、なぜか直感に反するという。 それだけの話。


◆混血のパラドクス


日本人と外国人が子供を作るとする。

ハーフの子供が出来るとする。


日本人を「白色」
外国人を「黒色」 だと 「色」のように例えて考えてみる。


ハーフの子供は灰色である。

そのように混血が進んでいけば、全ての人間の形質というのは、「ただ一方的に」灰色に近づいていくしかないはずである。

(同族結婚は現状維持、混血は混色、なのだから、混色方向にしか進まないはず、という考え)




だが世界はそのようにはなっていない。 (ように見える)



ということは、世界には「混血を進める力」と同時に、「その逆の力」も同じくらいの影響力で存在しているのではないか?
と想定できる。


「そのような力」とは何か? (混沌と結晶化の対立)


例えば、日本人と日本人で結婚すると、子供が「白色側」に「近づく」ということが、あるだろうか?


だがよく考えれば分かるだろうが、

それは、灰色と灰色を混ぜると白色になるような発想である。 なぜ灰じゃないのだ?
いくら混ぜても、ほっておいて白側に近づく理屈はない。



ということは同族での結婚もまた、混血の一種でしかない。

色を白める要素は別のところにあるはずだ。 ソレは何か?


・・・
「ある地域で育つ」ということが、「ニワトリのニワトリ性を強める」ということがありうるはずだと、なんとなく見えてこないか?


(メンデルの法則みたいなのはこの場合役に立たないと思うのだがどうか)


◆折れ線グラフのパラドックス


折れ線グラフをズームイン ズームアウト


Q.
折れ線グラフをズームインすると、 そのギザギザぐあいは滑らかになると思うだろうか?

A.
→ なるんじゃないのぉ?



Q.
じゃあ逆に、 折れ線グラフを思いっきりズームアウトして遠くから眺めたら、 
そのギザギザぐあいは滑らかに見えるようになると思うだろうか?


A.
→ それも、なるんじゃないのぉ? 大局的な「流れ」みたいなものが見えてきてさぁ




おいおい
おかしいではないか。 
それでは、折れ線グラフはズームインしようがズームアウトしようが、結局滑らかになるということになってしまう。
妙だぞ
・・・
というパラドックス。




正解は、「ズームインの場合もズームアウトの場合も、滑らかになるかどうかはわからない」というのが正しい。


複雑系 フラクタルについて。

海外線の長さというのは、図り方によって無限に広がる。 とか



・・・こういうの、ある種「わからんごろし」のような概念だと思うので、

人を騙す時に使えるんじゃないかなぁって思ってたりする。

それはそれで別のカテゴリの話にできそう。


5月31日がまるで一年の半分であるかのように誤解している人って、一定数存在すると思うのだ。
(実際は、6月30日が半分)

(時計とカレンダーの差を利用したトリック 不意を突かれたら間違えちゃう人もいそう?)

「人を騙すネタリスト」というので、これも1つの記事になる気がする)



◆死亡事故と心の痛み のパラドックス


ある重度障害者の施設で障害者が大量に殺害されました。


その事件は痛ましい事件か?


そうですか。



では、もしも、その「殺された重度障害者達」にたいして、 
実は殆どの遺族が「内心死んでほしかった」と感じていたとしたら、どうだろうか?


同じように痛ましい事件だろうか?


「悲しんでいた人間の総数」

「悲しんだ遺族の苦しみの総量」

「その事件が起きたことにより世界に満ちた不幸の感情の総量」

「世界が不幸になった量」

・・・
それらを考えた場合、


被害者の障害者が実は家族に疎まれていた世界のほうが、

被害者の障害者が家族から愛されていた世界よりも、 「幸福度が高い」ということになる。



ならば、 「既に起きてしまって取り返しがつかない事件である場合、 前者を"期待する"ほうが実は健全なのではないか?」
と考えるパラドックス。


「どうせなら世界のみんなが幸福である状態の方を望む」という無邪気な願望である筈だが、 
何故か邪悪に感じられるというパラドックスである。




「赤ちゃんの首こきゃ事件」とかも、 実は障害児の母親が暗黙の了解で間引きしていたと解釈するほうが、

「自分の赤ん坊が死んで悲しんでいる母親像」が消滅する分、より「痛ましくない事件」になるはずなのだが、

世界から悲しみを減らすために、また事実としてそうなるのだが、 なぜか直感に反する。




自分も、自分の障害者の姉なんか通り魔に殺されてしまえばいいと思っている。


◆真の反省というものは存在するのかというパラドックス


なにか犯罪をおかして、裁判所とかで供述するとする。


そういう時に「反省しています」と言うわけだが、
「ワタクシはこれこれこのようにちゃんと反省しておりますから、刑を軽くしてください」という態度というモノは、
矛盾しているように思う。



本当に反省をしていて、自分が償っても償えないほどの悪いことをしたと思っているのなら、

刑はそのまま、いやむしろ
「出来るだけ長い間刑に服していなければならないはずだ」と、自分でも思うはずだ。
本当に、本当に反省しているのなら。



だが実際は、反省をしているフリ・アピールをして、自分の刑を軽くして貰うことを考えているような奴ばかりなのではないか?




この大いなる矛盾。



本当に反省をしているのなら、反省アピールなどせずに、自分の刑を伸ばすような態度を取るべきなのではないか?
実は反省をしていない人間だけが、反省アピールをして、自分の刑を縮めてもらうことを乞うのではないか?



「本当に反省している人間」はどうするべきなのか。


やはり、
全く反省をしていないような不遜な態度をとって、刑を出来る限り伸ばすように務めるのが、
本当に反省をしている人間がやるべき行動なのではないか。



真に反省しているやつは、全くもって反省していないように見せないといけないし、
そうしてないやつは真に反省していないということになる。


いずれにせよ、「反省してます」なんてことを言ってるやつは、真に反省していない奴だと言えてしまうのではないか。


よって、この世に、「外面的に見て取れる真の反省」なんてものは存在しないことになる


(ここからが重要)


・・・で、あるにもかかわらず、裁判官などは、
被告人が反省しているかどうかで刑の重さを決めようとしたりする。


これはものすごく矛盾しているではないか! 外面的な反省など、参考にしてはならないってことが分かるじゃないか!


そんな問題を感じないか?


◆ 両方タッチのパラドックス

(自分が初めて思いついたパラドックスがこれだと思う)
(多分中学生ぐらいのころに考えた)
(パラドックスというか思考実験に近いかね)



ここに2つのボタンがある。


AB両方のボタンを触ると 電気が流れて死ぬ。


片方のボタンに触った状態から
ボタンから手を話すと やはり死ぬようになっているとする。 (一度踏んでしまった地雷のように)


助かるためには

Aのボタンだけを触った状態から、
Bのボタンだけを触った状態に一瞬で移り変わればよい。

そのように設計されているとする。


で、
あなたは今Aのボタンを触ってしまった。

あなたはそこから助かることが出来るだろうか?




時間の最小単位

距離の最小単位
のようなモノはあるか? という考えが必要になってくる。


そんなのはない?
もしないのであれば、助かるのは不可能ということになるだろうか?
・・・
などなどの疑問にも繋がる。


◆楕円のパラドクス

円にパースをかけると楕円、円以外の形になるんじゃないか? という気がしてくるが、実際は楕円だけで描けるという話。


よくやる。

これは自作でもなんでもないな。


◆ 人間は永遠に産まれてこないというパラドックス



最近、「ドグラ・マグラ」という小説を読んでいるのですよ。 今更。 無料だったから。

(あと、「バーナード嬢いわく」で、神林がいっていたセリフに感動したので、)
(気になってた本は 「今更」とか「厨二っぽい」とか恥ずかしがらずに読むべきだとわかったから)



そこに出てくる「胎児の夢」という考え方と、

それプラス「ジャネーの法則」や、

ネズミの細胞とゾウの細胞、ネズミの時間間隔とゾウの時間間隔などの考え方・・・

などなどを組み合わせていくと、

実はこういう考え方が発生した。


人間は主観的に永遠に産まれてこないと。


更にこういうのもある。


宇宙の「熱的死」を人類が回避するために

無限にクロック数を高めていくコンピューターの中に人間の意識をぶちこむことで、

無限の体感時間を得て、そこに逃げ込むという発想がある。



これの時間をまさにひっくり返した版のような現象が、実は「人間が産まれてくる前に」既に起きているのではないか?
という
考え方なのだ。


受精を「ビッグバン」のように捉えられる。

受精卵にすら既に時間の感覚があるのならば・・・




人間が産まれてくるまでに体験する「胎児の夢」というのは、生命の進化の歴史40億年どころではすまないのではないか?

という飛躍。


◆50%の確率で不幸が遺伝するとはなにか

親の性格は子にも遺伝する

親の不幸は子にも遺伝する

親の知能は子にも 親の人生の失敗は子にも。。。
というわけだ。


ではどの程度か


ここで、「親の不幸は子にも50%遺伝する」という噂があるらしい


だが冷静に考えてみると、意味がわからない 50%遺伝とはどういうことか?


親が不幸な子供がいたら、その子供は50%で不幸ということか?
で、残りの50%は幸福なのか?


そういうのは、「無関係」というのだ。



「雨か晴れかを50%で当たる天気予報」というのは、 情報量0なのだ。 
情報量の定義にしたがって計算すれば分かる。


丁半博打をやる際、「50%で当たるよ」という予測屋から得られる情報量は、0バイトなのだ。
(これは分かりやすいだろう)


01の情報を占う場合、
「10%しか当たらない占い」というものがあったら、それは90%当たる占いだと言って良いのだ。


人間の人生を幸不幸の二値情報に分断して、
それが遺伝するか遺伝しねーか、を語るということ。


つまりこのような確率の予測も、50%が最低ラインである。 
50%を越えなければ無関係ということになってしまうのだ。



・・・てことは親の幸不幸と子供の幸不幸は無関係ってこと?
どう考えても、そんな訳無いだろう。 やはり言い方・捉え方が間違ってるのだろう。







・・・そんな感じで、
なんか面白そうなパラドックスを思いついたらここにメモって行きたいですね。


まぁどうせ忘れるんだろうけど。


◆ 馬鹿舌のパラドックス


◆ この世にモーションブラーなんて必要あるのか?という疑問







関連記事
[ 2016/12/23 17:38 ] リスト系記事 | TB(0) | CM(2)
何よりのパラドックス
パラドックスと言うのは、他人と自分の価値観の違いで生まれるものだと思います。
例えば、昔貴方様が書いた戦争の話や自殺の話等。
自分は何とかだと思っているのに、この人は何とかだと思っている。
自分がそう思っているのが自分側の考えの何よりの理由ですよね。(こう教えられたからこう思うは価値観ではないとして)でも、相手も同じように理由がある。
何よりのパラドックスではないでしょうか?
[ 2017/01/03 11:30 ] [ 編集 ]
コメント返信
> おでん昆布 さん

> 自分は何とかだと思っているのに、この人は何とかだと思っている。

人によって真逆に主張になってしまうこと、
それどころか自分ひとりの中でさえ真逆のことを考え出してしまうこととか
わりとどうしようもないですよね。



あと
ちょっと関係あるのかないのか微妙ですが、


人と人は分かり合えるのかor分かり合えないのか
みたいなことも考えます。


「人と人は分かり合える」という主張と
「人と人は分かり合えない」という主張がぶつかりあった場合、

分かり合えるか分かり合えねーかという議題で分かり合えてないので、

かならず「後者の方が勝ってしまう」のだけど、本当にそれでいいのか?みたいなことです。



[ 2017/01/07 11:27 ] [ 編集 ]
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