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宗教全否定~ニートが宗教について思うこと~ その3

 
宗教についての話3回目。 終わるはずもないんだが、これで終わりとする。


第一回では宗教が如何にデタラメであるか

第二回では宗教を信じるモードの脳が如何に危ういか、 宗教的姿勢 そして宗教VS科学の話


そういう話をしてきた感じですね。

んで、
もう宗教なんて物をマトモに信じる必要性なんて無いことが大体わかったと思うのですが、
それでもなお、まだ、残すべき理由があると信じ、抵抗する人はいるでしょう。

今度は、その「残ってる部分」も摘みにかかります。

完全に宗教の息の根を止めたいです。


このようなことを延々と語っても
それでもまだ宗教の存在意義を唱えようとする人間がいたとしたら、
彼らが必ず最後にすがろうとするのが、

宗教による「道徳・モラル維持」とか、「文化的影響」の側面でしょうね。


だから今回はこれら、そして考えられる残りの全てすらも潰して、宗教へのトドメとしたいです。



 

宗教全否定 その3 トドメ・ファイナル


◆宗教による道徳、モラル維持について


宗教への批判を強めていくと、最後に残る物の1つに、これがあります。


宗教を信じることで、他人に思いやりのある、優しい、礼儀正しい、慈愛に溢れる
そんな人間に一応はなれるんじゃないの? 信じてることはともかくとして・・・

・・・
みたいな、感じ。

そら、信じてることはちょっと変かもしれないけど、単なるご近所さんとして見れば、
あの〇〇教を信じてる人って、挨拶もハキハキしてるし、感じいいし、凄く親切な人じゃないの? 

・・・
みたいな、
・・・
別に、何を信じるのも本人の自由だし、
本人がよければそれでいいし、
それで悪人になるのでなけりゃいいんじゃないの?
あの〇〇教の人たちは、毎朝近所の清掃とかしてて、凄くいい人じゃん?

・・・
みたいな感じで、宗教に対する攻撃の手をやめてしまう感じです。


果たしてこんな考え方でいいのか?


宗教を信じることで本人たちが幸せならそれでいいことだ。

・・・
それで思考停止していいのか? 


(ていうか、
 そもそも宗教にハマるような馬鹿な人間が、親切で優しい人間になれるかというと、相当怪しいけどね)
物凄い「自己中」で「排他的」で「近視眼的」な人間になるのがオチなんじゃないかと)





ていうかそもそも、宗教信じてる奴がこの世で最も他者に対して不寛容で
多様性を認めなくて排他的な存在でしょう。


あの「サウスパーク」ですら、この問題に関して、そこで止まってしまっています。


サウスパークに「モルモン教回」というのがあります。 

サウスパークs07e12「ユタから来た転校生」

s07e12「ユタから来た転校生」

あらすじ書きます。

ユタ州からサウスパークに新しく引っ越して来た家族は、底抜けに明るくて、なんか浮いてる隣人だった訳だが、
あんまりにも気のいいやつらなので、スタンもランディも、多少その家族と仲良くなったのだが、

なんでそんなにアホみたいに明るいのかたずねてみると、どうも家族ぐるみで「モルモン教」を信じているらしい。

でも、聞いてみるとモルモン教の教義というのは随分嘘くさい。 

教典のでき方も胡散臭い。
教祖は預言者ということで、なんか「誰も見たことのない黄金のプレート」があって
それを帽子を覗きながら英語に翻訳したらしい。
翻訳したモノを一回隠されて、もう一回翻訳することになったけど、まぁちょっと違うけど同じ通りに訳せたから、
その預言は「マジ」ってことらしい。
・・・そういうモルモン教を信じて、家族仲良くハッピーに生きていきましょうね、というテンションなのだ。

・・・で、普通に聞いてりゃ良くそんなデタラメの教義信じれられるな、ということなので、
スタンは、そんなデタラメを妄信してるお前ら家族全員気持ちわりーな、とブチ切れてしまった。

するとその転校生が言うのだ。

自分だって本当のところ、このモルモン教の教義が真実かどうかは「実はどうでもいい」と。
ただ家族がみんな明るく朗らかに生きていけるのならいいことじゃないかと。

でっちあげでもいい

(漠然とキリスト教を信じているが、敬虔さも自らを律することも何もなく生きてるお前らはなんなのかと)
(↓これは実際の「スタン家の描かれ方」と対比すればそんなメッセージ性は見えてくる)

スタン家とモルモン家

それなのに、君はモルモン教の教義を批判し、あげつらうことばかりに夢中になって、
その結果、ボクという友人を失うことになったんだ。 ざまぁみろと。 suck my balls.


そう言われてスタンは愕然とする。 
そしてその時に初めて、その「気色悪い転校生」のことを、カートマンも見直すのであった、と。


・・・こんな感じの話です。


サウスパークの中でも特に興味深い回だと思います。


宗教との付き合い方。 宗教嫌いの人間へのカウンターになってるのが面白い。 

(普段は宗教とか教会なんて、ボロクソに風刺してるサウスパークなのに、モルモン教にだけは妙に優しいのですw)
(サウスパークの世界観では、宗教信じてるやつは基本地獄行きですが、モルモン教徒だけは天国に行けるのです
(なんなんだよそれは)


つまり宗教の教義の根本が正しいか正しくないかなど実はどうでもいいと、

それでも家族が愛し合って生きるだとか、ご近所さん同士楽しい付き合いをするだとか、

そういうことをちゃんとすること、それが出来るのなら宗教も悪くねーだろ?
みたいな話なワケですね。



・・・
・・・
だが、自分としては、サウスパークともあろうものが!なんでそんなヌルいのかと!
今となっては不満です。



サウスパークシーズン72003年放送。
911後の世界です。 

ドーキンスは911で、宗教のデメリットと人間の愚かさに怒り、「神は妄想である」を、既に書いています。


今思えば、その時代に、こんな「今更な宗教への寛容性」を見せるようなエピソードは、なんだったのか。

日本人で、当時からもう宗教嫌いをこじらせていた自分としては、
このエピソードの視点は目新しく、それゆえに面白かったのですが、
あらためて事情を考えると、ヌルいです。


ちなみにドーキンスは、サウスパーク内では「女になった」ギャリソン先生とヤッてますね。)
(ギャリソン先生にスパモン教を教えて、科学万能の世界を作り出した教祖の2人になってます。)

サウスパークs10e12 リチャード・ドーキンス

(わりと、ドーキンスはサウス内で馬鹿にされてるかも)
(それにしても子供に進化論を教えない教師だったギャリソン先生が今では大統領ですからね 現実と同じなのが恐ろしい


で、「道徳」の話ね。


宗教を信じるモードの人の中にも、
宗教というものの存在意義を「このように」捉えている人は結構いるかもしれません。


前回の記事のように、マトモな頭してるなら、宗教の教義というのは理性的には耐えられませんからね。
だからこそ、その理性を、このような考えで自己欺瞞するのです。



(冷静に考えてみるとウチの宗教の教義はデタラメかもしれん・・・)
(よく考えてみるとおかしすぎる・・・)

(全くの真っ赤な嘘を今まで信じてたのかもしれん・・・)

(・・・どうしよう? 自分は自分の家族に取り返しのつかないことを・・・?

(・・・!)

(いや、それでもいいじゃないか、と)

(自分自身が救われた気分になるならそれでいいじゃないか、と)


おぉそうじゃ

そもそも、
宗教を信じなかったらどうなる? 

みんなが地獄を信じなかったどうなる? 

みんなが罰を信じずに、因果応報を信じずに、自分勝手に生きたらどうなる?

きっと世の中は今より悪くなってるはずだ!

だったら、嘘の教義でもいいから、罰でも因果応報でも輪廻転生でも信じて、
みんなが悪いことしないで生きていくように律したほうがいいじゃないか!!!

例え教義が正しかろうが正しく無かろうが、
それでも宗教はいいものなんだ!


・・・
・・・
こんな風な考え方です。 なんとか宗教に疑問を持ち始めたけど、それ自体開き直ってしまうのです。

(まぁこれも前回のとおり、認知バイアス全開になってるのはわかると思いますが)
(宗教をそれでも信じ続ける人間は、こんな風な自己正当化で防御してるつもりでしょう)


今回はこのような考えを叩き潰すために、この記事を書いています。


サウスパークの例。
これは舞台がアメリカだから、基本的なキリスト教と新興宗教であるモルモン教、みたいな対立があるでしょう。
より良い宗教への「鞍替え」みたいなこともあるのかもしれん。


そもそも西欧欧米には、神を信じなければ何が善悪かなんて人間に判断が下せる筈がない!
みたいな考えすら、素であります


「人間が善悪の判断を下してしまう恐怖」
「人間が人間を裁いてしまう恐怖!」 


(日本人はピンとこないでしょうが、「審判の日」とか信じてる彼らからすると、かなりの問題なのです)
(人間は最後の日に、神によって裁かれなければならない)
(映画「ミスト」のオチは、「彼らだからこそ」突き刺さる部分もあるのです)


だが、日本ならどうか? 
「現代日本」で今、そんなに「道徳・モラルの維持」のための宗教って、必要だと、マジで思いますか?


そもそも、
最初の記事で言ったとおり、宗教から何かを学ぼうとすると、
かならず子供にデタラメを教えないといけないことになります。
(例えば「因果応報」のように、ありもしない法則から子供に道徳を教えられるような気がする、そんなデタラメ)



それって、「江戸しぐさ」とかと同じですよね?



「江戸しぐさ」とは、ありもしない歴史を捏造して、↓こういう事抜かしてる人たちです。

「昔の江戸の人はこんなに礼儀正しかったんですよ~」

「このような古き良き日本の心は素晴らしいから、ドンドン伝えていきましょうね~」

「教科書にも載せまくりましょうね~」

「えっ? 江戸しぐさなんて存在した証拠がない?」
 「なかった証拠だって無いでしょう??? (スパモン)

 「江戸っ子大虐殺」を知らないんですか? みんな殺されちゃったから証拠がないのは仕方ないじゃないか!
 (激怒) (一行で大矛盾) (反証可能性ゼロ) (なら何故お前は知っている)」 

「いや、百歩譲って江戸しぐさがあったという証拠がないとしても、
 それで子どもたちに道徳を教えられるんだから、それで良いじゃないですか!!!」

「お前は子供に礼儀正しく育ってほしくないのか!!この野郎!!」


・・・って言ってるようなのと、同じなんですよ。


宗教のライトサイド、
宗教のメリットを信じたいモードの人は、この問題についていっぺん真剣に考えてみてください。


江戸しぐさをゴリ押ししている人は、「醜い」でしょう?

子供に道徳を教えるのに、ありもしないデタラメな歴史を捏造する必要はない。

そんなことしなくても子供に礼儀作法くらい教えられるでしょう?



「宗教のいい面」を信じようとする人も、宗教と関係ないジャンルの江戸しぐさの話なら、
この気持ち悪さが途端に、客観的に分かるようになるかと思います。


今、あなたが江戸しぐさについて感じている その気持ち悪さ、独善性が、宗教の本質なのですよ。


それがわかったなら、
宗教もソレと同じだということに気づけるはずです。


いや、
ていうか、「宗教」から比べれば、あの醜い「江戸しぐさ」すら、まだずっとマシなことが分かるかと思います。



「江戸しぐさ」とは、歴史の捏造をしていますが、その内容自体は「作法の集まり」でしかありません。
昔はこういう作法がありましたよ、という「リスト」でしかありません。
単に、それに習っていきましょう、という考えです。

邪悪なのは、「歴史の捏造」その一点だけです。

その一点以外には、特に害は無いはずです。 

その意味では、江戸しぐさは「シンプル」です。 無駄な「枝葉」がありません。


一方、宗教。 

宗教がやってることもありとあらゆる起源や事実の捏造ですが、

宗教はライトサイドだけではありません。

宗教からも「一応」道徳を習うことは出来るでしょうが、

宗教にはその性質としてありとあらゆる「枝葉」がくっつき過ぎています。 

そこから派生するデメリットがどれだけあるか。

「あれをしないといけないこれをしないといけない・・・」

帝王切開はいけない。

輸血はいけない。

予防接種はいけない。

この宗教を広めろ。

異教徒は殺せ。

異教徒を殺すと天国に行けるぞ。

あれを買え、これを売りつけろ。

一日に何回あれをしろこれをしろ・・・

あと最後に、隣人を愛せ
 みてーなもんです。

・・・
前回の記事にも書いたように、宗教の教義という「歴史の積み重ね」が「悪質」なのは、
そこに自浄作用が働かないからですね。


駄目な悪習を、彼らは排除しきれない。 する能力がない。

だから未だに原理主義者がはびこり、宗教的対立・宗教戦争が世界中で続いている。

んで二言目には、
「あれは原理主義者が悪いんです。」 
「普通の敬虔な信者のことを悪く言わないでください!」
「〇〇教徒を恐れないでください!」 
の大合唱です。

だったら教義とお仲間の信者を正す努力をしろよと。
自浄作用のない連中は、ゴミ扱いしていいんだよと。


・・・
・・・というわけで、宗教から比べれば
あの醜い醜い江戸しぐさすら、百億倍可愛いことがわかったでしょう。


「宗教から道徳を学べる」という思い込みは、
「江戸しぐさから道徳を学べる」という思い込みと等しいどころか、ソレ以上に邪悪だということです。



(もし江戸しぐさも宗教も両方信じてる人がいたら、もう終わりですね 地獄)


・・・でも本当におかしな話です。


みんな、江戸しぐさが邪悪なのはすぐに気づけて、フルボッコに出来たのに、

なぜか、相手が「宗教」だと、攻撃の手を緩めてしまうんですよね。

あの2chねらーですら、「天理教」のことを褒めてたりする。 なんでだ??? まったくもう。


そもそも日本人は神や仏を信じるのをいつの間にか放棄できてた筈の民族でしょう。
 (「もののけ姫」ってそういう話だと思うのです)
 (日本人は、もう室町時代くらいに、神秘を信じるのを放棄して、自分の生活の利益を優先するようになったと)
 (鉄をとる、山を切り崩す。そのためには神域の森など知ったこっちゃない)
 (利益の前に、祟りも聖域も無くなった)(鉄が人間の意識を変えた)(銃・病原菌・鉄!)
 (そういう話)


漠然と、神道や仏教は残っているけど、本気で信じたり行動している人は、殆どいない。

心の底の底の拠り所のような部分に、神や仏を置いている人も殆どいない筈。
(新興宗教を信じてる人を除く)


それでも、日本は世界でも屈指の、犯罪率の低い国でいられるわけです。
最強レベルでモラル・民度の高い国でいられているのです。


これはものすごく誇るべきことだと思うのです。

(つまり、今までの話があるからこそ!)

「嘘でも、人間を騙してでも、宗教で道徳心を植え付けたほうがいい」

「ありもしない神かもしれないけど、宗教を信じることで人間の利己的な行動を抑えられるなら、それに越したことはない」
 (だって、人間は神を信じなきゃ動物と同じだから、どんだけ冷酷で自己中なことをするか分からないから・・・)


そういうことを言って宗教を肯定し、広めようとする人がいるかもしれないけど、

「日本人」という存在そのものが、ソレに対する反証になっているのですよ。



日本人は基本的に心の底で、きっと神も仏も信じていない。


それなのに、犯罪率が滅茶苦茶低い、我儘な人が少ない。
殺人の事件数はどんどん下がり続けている。
どんな状況でも他人の迷惑を基準に考えられる。 「和」の精神を持っている。


「災害が起こった時、人の本性が一番出る」みたいなことをいいます。


神をキリスト教を信じてる筈のアメリカ人とか、ひとたび災害が起これば、街では略奪祭りですよ。
彼らは、一皮むけばそんなもんなんです。


でも、日本人はあれだけの災害が起きても、全くあんな調子だったわけですね。
行列を守れる。 略奪をしない。 (これは「傾向」の話ね)
略奪をしない日本人


こんなに誇らしいことがありますかっと。

(それは集団意識・同調圧力がうんぬんとか・・・)
(それは単一民族だからうんぬんとか・・・何故かいろいろ言われそうだが)
(そんなことは色々言う必要がない。 こういうことを結果として「モラル・民度」の高さと呼ぶんだよ)


つまり、
「嘘の神を教えこませて、馬鹿な人民共を道徳的に律しよう」なんて考え方が、この世で一番不必要な民族性だということです。



神を捨てても、最も親切でいられる民族なわけです。 

(なんか愛国ポルノ的に聞こえる?)(これに関しちゃ事実なんだから仕方がない)
(そして宗教嫌いの自分にとって、こんな素敵な事実はないのだからしょうがない)


なんと素晴らしいことか。


宗教のライトサイドなんて物のために、デタラメを信じさせるという愚かで危うい行いなんかしなくていいのです。

子供に「江戸しぐさ」を教えて道徳的に律しようなんて考え方が最初から不要なのが分かるのと同様に、
子供に「地獄」や「因果応報」を教えて道徳的に律しようなんて考え方が最初から不要なのが分かるでしょう。

日本人にもはや宗教なんて必要ないということです。



嘘の宗教による百害を持ち込まなくても親切に生きられる。 これがベストの生き方だと分かるではないですか!!!

Imagine No Religion

ドーキンスからしてみれば、夢のような無神論者の楽園が既に成立しているようなもんですよ。


それなのに、

そ れ な の に、


その日本に未だに新興宗教というものがはびこっていて、それを信じている人間が実は大勢いるということ。

新興宗教を信じてるやつが近所を掃除してるからって気を許してしまうような考えが未だ残っているということ。



日本の新興宗教の分布地図

そういうことが自分は許せないということです。 あと家族がゴミ。


だいたい所詮、

どこまで行っても新興宗教は新興宗教です。 結局目的は「金集め」です。 

表面上は親切そうに見える彼らだって、彼らの活動自体がゴミ教祖様への資金集めになっているということです。



天理教の人は掃除してるからいい人?

ググれば何番目に「天理教被害者の会」って出てくるんですか?

家庭崩壊させといて「外面だけはいい人」ってことじゃないですか! 一番最低だわ。


デタラメな教えをばらまいている教祖が、
信者からお布施を集めまくり、脱税とかしまくり、左うちわで贅沢な生活できているとしたら、それはどういうことかわかりますか?


それは、結局のところ「人間全体の生きづらさ」につながっているということでしょう。


そういう感覚は、パチンコの回とかを読んでもらえばなんとなく体得できるはずです。

(ニートがこういうこと言うと怒る人いるだろうが)
(ニートは「ゼロ」、宗教とパチンコは「巨大なマイナス」だということです)



何も役に立つことしてないのに贅沢をしている人間がいるということは、「相対的に誰かが割りを食ってる」ということです。

それはものすごくわかりやすく言うと、新興宗教の「家族だとか」ってこと。 
一家の誰かが新興宗教にハマる。 そいつが金を送金する。 相対的に他の家族の一員が不幸になってる。 
そういうことが見えるはずです。


そうやって実際に大勢の家庭が崩壊していっているのです。


表面上、新興宗教やってる奴らが 頭パッパラパーでアッパーに見えて幸せそうだとしても、
結局裏では搾取されてる存在であり、彼ら自身が被害者であるということです。


嘘の宗教でも、嘘の教義でも、
信じてる本人が幸せそうならそれでいいじゃんなんて、そんな考え方、もうありえないことが分かるはずです。


宗教が最初からなければ、どんなに良かったことか。


Imagine No Religion・・・


まぁ大体こんな感じで、「道徳面」からの宗教の全否定は終わりです。

(本当はもっともっと詰めていきたいが)
(無駄に長いよね)(まだ次があるんじゃ・・・)


で、次、最後の最後に本当に残ってしまうのが、
「文化的側面」です。


これがもうキツすぎてね。
この上で宗教の全否定をしなければならないというが大変でして。


まぁどういうことか。

宗教の最後の砦です。

宗教が持つ文化的側面、伝統的側面、そのようなものがあるのに、宗教を全否定できるのかと。
宗教からどれほどの文化が産まれてきたか。


それこそ自分の大好きなエヴァなんか、宗教的意匠をコテコテに飾り付けている訳です。

宗教芸術、
宗教音楽には素晴らしい物があるということ。



宗教音楽を聞くと、無宗教の人間だって、
どんなに信心深くない人間だって、「無条件に感動させてしまう」ということ。


(まぁそうやって感動させて、神秘主義に引きずり込んでいるワケだが)

(あの、否応なく細胞を震わせるパイプオルガン、計算されつくした宗教建築美・・・)
(全部、人を巧妙に感動させて引き込むための罠なのですよ) (感動ポルノ)


(そうやって考えれば、美しいが故にこれらが「邪悪」なものだと気づいてきませんか?)

(そらそうだ。 悪魔が悪魔の姿をしている筈がない 悪魔こそ天使の姿をしているのだ


でまぁ話は逸れたけど、
文脈を抜けば良いもんは良いというのは自分でも分かります。

そういう「文化」と「宗教全否定」をどう折り合いを付けていくのかという難問。


最近の話題だと、
「除夜の鐘に苦情を言う人が増えた」みたいなニュースが話題になりましたね。


このニュースに関して、どっちサイドに立つのか?というのも難問です。


一般的な感覚で考えれば、

「一年に一回の行事なんだから我慢しろや」

「除"夜"の鐘を夜に鳴らさないなんてバカジャネーノ」

「文句言ってるのは日本人じゃないだろ」

みたいな意見が普通でしょう。 自分も基本はこれではあるんです。



でももうちょっと突き詰めていくと、

そもそもみんな神道なんて信じてないくせに、

あんな行事なんて「形だけの物だと分かっているくせに」、

それに「本気で神道を信じてない人間」からしてみれば、こんなのは完全に「騒音公害」の定義に当てはまるのに、
どうしてそこまで尊重されなきゃいけないのだ? という疑問は出てくるかもしれません。

思考停止なんじゃないかと。

みんな本当はどうでもいいと思っている神道のために、

ガンガンガンガン騒音をならすのだけは仕方がないと諦めているのはどういうことだ?

今の時代に神も仏もありゃしないのに、伝統だからって続けるのか?

珍走団と何が違うんだ?

本当に宗教を捨てるのなら、こういうところから捨て始めなきゃいけないんじゃないか?と。


・・・
みたいなことを考え出すと、
意外と最初の「除夜の鐘に文句いう奴けしからん!」みたいな考えって、薄れていくのが面白いです。


このコンプライアンス社会
クレーマー気質社会
・・・
漠然とそう思ったりもするのだが、
痴豚様のラジオを聞くと、除夜の鐘問題について思ってたことが変わってみたり、
リンクに魚埋め込んだアイススケート場の炎上問題について思ってたことも、変化したりする。
そういうのが面白かったりする。


坂口安吾の「堕落論」とか「日本文化私観」とかも、そういうことかもしれぬ。

「法隆寺よりは停車場を」という価値観がありうるのである。 

「法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい」
(これは1つの物の例えなので本気はどうかは分からぬ)


だが今でこそ、このようなことも気になるはずだ。

商店街が失われてイオンモールが建つ、

近所の神社や寺が取り壊されてコンビニが建つ、

昔からの景観が無くなって、商業主義のゴチャゴチャした物だけが残る。 
(いや、「残りすらしない」。 焼畑農業のように、イオングループすら撤退して何も無くなったりする)

日本の街の景色ってマジ汚ねーよな、と。 文化の香りも糞もないよな、と。

それでいいのか、いかんのか。


で、ここで気になってくるのが「そもそも文化とはなんぞや」ということである。

漠然とした、法隆寺はそれでもバス停より大切なんじゃねーの、という感覚はなんなのか?

そら普通に考えりゃ、文化的価値が全然違うだろと思うだろう。
「世界最古の木造建築様」と、ただの「バス停」で比べもんになるかと思うだろう。


だがこんな建物のことを考えてみよう。
どっかの新興宗教が、その有り余る金をかけて作った、巨大な建物郡のことだ。


凄すぎる新興宗教の寺

凄すぎる新興宗教の寺行ってきたので写真うpする

日本にある巨大新興宗教施設で打線組んだ

なんでもいい。牛久大仏みたいなやつとかでもいい。


このリンク先、(まとめブログ貼るという、本来の自分の趣味でもないことをしてしまったが、)
この1つめコメントを読んでもらえれば、
やっぱり新興宗教ってゴミだと分かってもらえると思う。



これらは、「文化」だろうか? 


ここまで読んできた人で、宗教サイドの脳の持ち主じゃない人なら、
このような建物が、「人を騙して搾取した、汚れた金で建てられた、俗物趣味・成金趣味のゲテモノ」に過ぎないと、
そのような感覚も持てるようになってきてるだろう。 脱税どころじゃない邪悪。

(一体、どれほどの人間、どれほどの家族の不幸をにして、これらの巨大建造物は建てられているのだろう・・・)
不幸の結晶じゃないか・・・)




・・・
だが、
じゃあもし、この建物が、数世紀経ったとして、建てられた経緯も文脈も消え失せたとして、
または、「何も事情を知らない外国人観光客」に見せたとしたら、どうだろうか?

彼らはこれらの建物をみて、
「わお!日本の伝統的な建築物スゴイでーす!」
「神道クールでーす!」

とかってなると思うのだよ。


(数世紀後になってしまえば、怪しげな新興宗教も、「昔のなんだかただならぬ荘厳な宗教」扱いになるだろう)
(そもそも今残っている仏教の「何々宗」とかだって、それが生まれたときは新しい新興宗教だった訳だ)
(日蓮なんて↓この程度の奴ですよ)
日蓮ですぞー


マネーロンダリングみたいなモノを感じませんか?
時間が、過去の愚かな宗教ブームを、まるで凄い歴史ある文化であったかのように見せてしまう。
時間が宗教の醜さを洗い流して、最後に凄そうな建物だけが残る感じ。


では
法隆寺の経緯というのを考えてみる。 (あれだって「時間」が経ったものだから)

聖徳太子が法隆寺を建てたその狙いとはなんなのか。

(自分の好きな、山岸凉子の「日出処の天子」という漫画基準なら、割りと碌でもない理由になるだろうな)
(そもそもあのホモ王子が何故「斑鳩」に逃げたのかというと・・・それはホモ王子だからだ)
(まぁフィクションなんだが) (そもそも聖徳太子自体存在しないという説もあるが・・・)


でも本当に「日出処の天子」読むと
聖徳太子が推古天皇推したのとか、単なる政治的策略のようにしか思えんのよな。
この辺、「堕落論」の藤原氏のくだりと完全に被るのだ。

「大王(おおきみ)が2人になったのだ!」という蘇我馬子の怒り、驚き。

平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、
自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、
迷惑にも思っていなかった。
天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。
彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉たのしければ良かったし、
そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。
天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。


なんだかめっちゃ被るんだが?


いや、法隆寺じゃなくてもいいわ。


まさに最近読んだ三国志とかでは、
曹操の息子、曹丕が皇帝の権力を奪う前に、受禅台とかを建ててから、
わざと何度も断ってから(18回)魏王になってたりする。

・・・
とにかく、歴史的建造物なんてものは、
その時代の権力者、金・力を持ってるやつが、自分の利益、権利、権力を更に拡大させるために、
色んな策略や思惑をもってそのような建造物を建てさせたという経緯があることが、単に見えてくる。己の都合で。



どんな建物も、大体は案外「非常に私的な感情」で作られたようなモンだったりするんじゃないかと。


そしてそのような建物は、大抵、「人々の生活の役」には一切立たないような、ウドの大木のような建物なのだ。


・・・
じゃあ、同じじゃないか?


「どっち」に「同じ」なのだ?


新興宗教の教祖が金に物言わせて建てた巨大な建物も、文化的に偉大になりうるのか?

それとも、過去の権力者達が建ててきた歴史的建築物とやらも、
実は今の新興宗教の教祖が建てたゲテモノ建物と同じ程度に、卑近なのか?



どうでも良い気がしてこないかと。


ピラミッドは美しいのか? 美しくないのか?
ピラミッドのある世界を望むのか? 望まないのか? 
 (風立ちぬ かぐや姫)


(ところで、今、自分は迷走しています。 この辺は読み飛ばしてもらっていい)


で、文化というものがよく分からなくなって来たところに、次はこれである。


次は「伝統」という物への疑問。

人間は、相手が「伝統」だと、急に萎縮してビビってしまう。
あの「鈴木先生」ですら、「伝統」の前には思考停止してしまうときがあった。
 (でも鈴木先生も、「生霊」とか信じてるサイドの人なんだよなぁ、実は)


勿論それもある程度は分かる。

伝統・伝承というものの経緯を軽視して行動すると、とんだ大失敗を繰り返すということは実際にある。
「浪分神社」より下に家を立てるな、という伝承が廃れたから、あの大災害になったのだという考えもある。


だが、だからといって伝統伝承、そういうモノを根拠もなく「全て」ありがたがるのも、同様におかしいと自分は考えている。

伝統の中には、相当しょうもないものもあるはずだ。 ミソとクソなのだ。 ミソとクソをごっちゃにしてはいけない。


例えばどんなのが軽視していい伝統か、捨てていい文化か?


一番分かりやすいのが「人食い人種」なんて風習があったら、そいつらは「野蛮」だと批判してもいいでしょう。

そしてその指摘をされて、彼らが「確かに人食いの伝統は野蛮だったかもしれん」恥ずかしく思ったなら、
そのとき、やめれば良いのです。

そして、今、人食いの風習が残ってる民族は、いないでしょう。
そしてそのことを「惜しい」「文化的損失だ」と思う人も、いないでしょう。 (水木しげるセンセとかが例外なのだがw)


つまり自分の考えとして、
「恥」は「伝統」に優先する、というのがあるのです。


恥ずかしいと思ったら、伝統はその時捨てていいんです。


「文化相対主義」なんて言葉がありますが、もはや、馬鹿にされるための言葉にしかなってないでしょう。

どんな文化にも貴賎はない? どんな文化もそれぞれ同じくらい立派? 
どんな文化も等しく絶対に尊重されなきゃならない?

・・・(どんな文化も? ほんとうに?)
もはやそういうものじゃなくないか? 


なぜなら、考えてみれば、「文化」というのは「習慣」がちょっと長期化して進化したような物に過ぎないからだ。
ミームがちょっと固まった程度のモノなんだ。


アマゾンで赤ん坊をシロアリの巣にぶちこんで燃やす文化があるとする。

度肝をぬかれる。

これは、野蛮なのか? 野蛮じゃないのか? 神聖な儀式なのか?

尊重されなければならないのか? 残さなければならない風習なのか?

や、焼くような余った子供を作るなよ。 どんな気分なんだろう。 地獄か。

未開の文明だから、やるのが許されているのか?

赤ちゃんポストは批判されるが、シロアリの巣で焼かれている赤ん坊は認められるのか?


勿論そういうことはリンク先でも書かれている。

実際これを目の当たりにすると案外「人間も大自然の巨大なサイクルの一部なのやなぁ~」みたいな気分になったりするのだろう
(子供を燃やしながら・・・?)

日本人が口を挟める問題ではないのかもしれぬ。


・・・だが、1つ予測できることはある。

この大アマゾンに、いつかもし文明の光が侵食して、
彼らの手にスマホやらが当たり前のようにあるようになった頃には、
自然と赤ん坊を燃やす儀式はなくなっているような気がするのだ。

つまり止めるのを決めるのは、彼ら自身だ。


それが彼ら自身の合理化なのか成長なのか・・・

自分は「成長」だと思う。

野蛮文明は、数直線上のベクトルの正負の方向のようなもんだと思う。

方向性の問題なので、「他の文明・文化・伝統を野蛮扱いするな!」ということでもないように思う。


じゃあ日本は今からでも野蛮から脱出できるか?


外国人から、「お前いつまでイルカ狩ってるんだよ、食いもしないくせに」と言われて、
「恥ずかしくなったなら」、やめればいいと思うんです。

でもそこで、「他国の食文化に文句言うな!」「これが伝統なんだよ!(思考停止)」とか言ってふんぞり返るだけではしょうがないと思うんです。


他所の国が犬食ってたり、ネコ食ってたりするのには、きっと内心軽蔑してるくせに、
自分達の食文化には介入されたくないから軽蔑してないふりをする。

「文化相対主義」、そんなフリをする。 だがもう、無理なんじゃないのか?

そんなことはもうしなくていいのです。 

それを食ってるということが恥ずかしく思った時、やめればいいんです。


・・・で、なんか「食文化」というきなくさい話題を扱ってしまったが・・・

(自分の中には食文化自体を超絶軽視してる価値観もあるから、こういうことになる)
(絶対にいつか、VRという「文明」が、「食肉行為全体」を「野蛮」の方向に置き去りにすると思うのだ)


(で、こういう話になると次に来るのは「多様性の保護の必要性」ということになってくるのだが・・・)
(そもそも自分の中にある「多様性とはなんぞや」という考え方が他人とは多分全く違うから、こういうことになる)

(ほら、こういうこと言い続けてたら、何部作になるか分かったもんじゃない)


まぁ疲れてきた。

とにかく、文化・伝統というモノはそこまで聖域のように絶対視しなくてもいい。 無条件に尊重しなくていい。
そういう価値観、思考ルートが「十分ありうる」ということくらいは提示できたかと思う。

てか自分が語らなくてもいい。 日本文化私観とか読めばいいよ。



ていうか段々そういう風になってきてるんじゃないか?

宗教に関する部分も、
今、皆、
葬式とか、戒名とか、とか、そういう仏教の形式すら、疑問に持ちはじめていて、捨てつつある人が増えているではないか。

自分は子供の頃からそう思ってたよ。 自分が死んだときは墓なんか絶対作らなくていいと思い続けています。 無駄だと。


そういう風潮けしからん!と思ってる人いるかもしれないけど、自分は逆に、「全くもって素晴らしい」と思っています。



日本人の「宗教への付き合い方」というのは、それくらい「蛋白」でいいのではないかと。




日本人の無宗教ぶり、宗教を単なる行事や商業主義にしか見てない感じ、宗教に本気になってない感じ
昔は、そういうのは海外から馬鹿にされるポイントだったのですが、

今はなんか、そういうのが見直されて来てると思いますよ。


「宗教を本気で見ない姿勢」


昔は軽蔑ポイントだったのに、今では翻って尊敬ポイントになってるのです。
日本人の「宗教と一歩距離を置いてるスタンス」は、凄くよいのではないかと、評価されてる気がします。(要出典)


なんかここまで、無駄な話が多かった気がする。

二番目の記事は自分でも結構スラスラ書けた気がするんだが、
この3番目の記事は、宗教の文化面を潰そうとして、その扱いづらさから、やたら遠回りをしてしまっている気がする。
本来ならカットすべきこと書きすぎた気がする。


そもそも「自分の目標」というのを考え直してみよう。


リチャード・ドーキンスは、911がきっかけで、「神は妄想である」を書いた。
あの宗教対立をみて、人間の愚かさにほとほと嫌気が差したのだろう。

人類全体に向けて、「もう宗教はいいじゃないか」と、言いたかったワケだ。




自分はどうなのか?

自分のきっかけは、大したことがない。 個人的な怒りだ。
宗教信じてる自分の家族がクソだ
ということだけだ。

じゃあどうする。

人類全員が宗教を捨てられれば良い、とは、素で思っている。
だが、そのようになるビジョン自体はそんなに明確に思い描けない。


でも、
・宗教を真に受けている日本人が、完全にいなくなる世界、

・全ての日本人が新興宗教から解放される世界、


これくらいの「限定」された目標であれば、余裕でそこを目指したいと思う。

 (とにかく自分の中にあるのは新興宗教憎しである)
 (だから今すぐに「普通の寺の住職さん」にやめろとか言うわけでも無いわけだ)


その場合だ、別に、今すぐ消滅する宗教的文化があるわけでもない。


「道徳」
「モラル維持」
というメリットからの宗教肯定、それを断ち切ったのが前半だが、

この後半、
「宗教が持つ文化」のために宗教否定が出来るか出来ないかというと、

考えてみると、最初からそんなに悩むこともなかったのではないかという気がする。



自分の目標を、「全ての一般の日本人が宗教を本気で信じてない状態になればいいだけのこと」という所に置くとするならば、
新興宗教を信じてる奴らさえなんとかすれば、ほぼ終わるだけのことである。 (その難易度は置いといて)

それ以外の多くの日本人は、もう既に「ほぼ神道や仏教なんか本気にしていない」からである。



で、それが出来るか出来ないかではなくて、その際の「文化的損失」のことを考えているのである。
 (メリットと、「メリットを斬ることによる損害」を考えているのだから)


自分は、新興宗教を信じてる奴が宗教を捨てる際に起こる文化的損失なんて、ほぼねーと思っている。

無いはずだ。 特に。

(だから、これを以て「文化的面での宗教否定」に関しては、)
(限定するなら、ほぼ何の問題もないということになった。)


だが、
「ほぼ」である。 ありうる少ない例外的な問題を考えていこう。


例えば、これからほぼ全ての一般の日本人が、宗教というものを真剣に受け取らなくなった場合

(寺を継いでる人とか、そういうのは除くとす)
(で、新興宗教を信じてる奴以外の殆どの日本人はその状態なので)
(これはほぼ新興宗教を信じてる日本人をなくするという目標と殆ど同じなのだが・・・)


これで、
文化面で何が変わるか?


基本はほぼ、変わらないと思う。 日本人はそういう宗教との付き合いをしてきた。 出来てきた。


だが自分が思いつくのは次のような例だ。


例えば今、遠藤周作の「沈黙」の映画をやっている。


この「沈黙」のような作品が、「損失の例」となりうると思うのだ。



遠藤周作は、「マジ」のクリスチャンである。 洗礼とか受けてる。
「本気で」キリスト教を、神を信じていた日本人である。


そうやってマジでキリスト教を信じていた彼だから、
「日本のキリスト教文学」として、最高傑作レベルの作品、「沈黙」が産まれたワケだ。



・・・まぁそこんところでだ。

自分が言うように、「もう宗教はいいじゃないか」ということになって、

ほぼすべての日本人が、宗教というものを真剣に相手しなくなったとしたなら

これから先、そういう作品、
このような「真剣に宗教を信じている作者からしか産まれ得ない作品」が出てくる可能性を、絶つことにはなる。


これである。

自分の思う、この、限定された目標の場合の、「文化的」損失というのは、これくらいである。


(なぜ文学くらいなのかというと、例えば賛美歌とか宗教音楽なんかは、その宗教を信じて無くても歌えるという考えがある)
(毎年、年の終わりに第九をNHKでやってるだろうが、別にあれを歌ってる人がクリスチャンじゃなきゃ)
(その歌に感動できないなんてことは無いだろう)
(ゆえに「文脈を伴う芸術の新作のようなモノ」にしかあてはまらない)
ソレ以外の宗教的な文化は、形骸化した文化・伝統・風習として残っていけばいいだけだ


(故に、これくらいしか、「実質的な損失」は無いとすら思っている)
(だから、仮に条件を「世界中の人間が宗教を信じなくなる」という風に広げたとしても)
(文化は慣習だけに留めておくとして、本当に「惜しいといえる」損失は、この類いのモノだけだということ)
(例えば新しく宗教的建築物を建てる必要なんかも、自分はまったくないと思っているワケだ)



で、
自分は、もうこれを「諦めろ」といいたい。



宗教は、百害あって一利なしだ。 いや、百歩譲って「二利」かな?と言った。


「一利」が、道徳面とかだとしよう。
 (はいはい、道路掃除を自ら進んでやる天理教のような人間は減るかもね)


もう「一利」が、これである。


で、「百害」のためにコレを捨ててくれ、という話である。
それくらい、宗教には害がある。

それに、伝統や風習を全部なくせということではない
「宗教を本気にする」のを、やめるだけでいいのである。




それに大体、
これから先、日本人から真剣な宗教文学なんか出てきうるのか?

遠藤習作はとっくに死んでます。


日本人は、宗教を「真剣に信じて無くても」、
宗教色をポップ感覚に使った作品をいくらでも作れるはずです。

(まさにエヴァがそうだが)


宗教を真剣に信じて無くては産まれてこない作品なんて、もう、良いんじゃないかと。
それは外国に任せてればいいんじゃないかと。


自分はそれでいいと思っているのです。


ところで、遠藤習作の「沈黙」について考えていて、
急にハッとしたのだが、自分が完全に忘れていた問題が、まだあった。


宗教の持つ「いやし効果」についてだ。 
(宗教は「偽りの慰め」と「騙し」である。 なんだから、完全にこの部分については無視してもいいと思っていて、忘れていた)


だが、「昔の人の生活」のことを考えてみたのだ。
まさに、「沈黙」のような舞台。 隠れキリシタンの時代。


厳しい年貢の取り立て、過酷な労働、質素な生活、身分による差別、特に娯楽や息抜きがあるでもなし・・・

そういう、とても厳しい苦しい生活の中で、
彼らは、たしかにキリスト教に「癒やし」「救い」を求めていたワケだ。


そこまでの状況ならば、自分も、無理には宗教を捨てろとはいわんのだよ。

このことに、気づけた。


・・・
いや、「だからこそ」なのだよ。

今、この現代において、日本人が、新興宗教にハマらなきゃならん必要性が分からんのだよ!


自分は、自分の親がなんで新興宗教にはまってるのか、全くもってわからない。


隠れキリシタンの時代のように生活が死ぬほど苦しかった筈も無いはずだ。
 (今は子供がニートになって、障害者になって、どうだか知らんが)

現代は、娯楽だって息抜きだって、いくらでもある。

なんで今、宗教なんかにハマるんだ?


現代においても一応は、
「宗教に癒やし効果があるから必要だ」という状況
も、あるにはあるわけだ。

例えば終末医療の現場! 臨床宗教!!
死の間際の患者の恐怖を紛らわすために、宗教の本を与えみるという手段、効果とかも、あるにはあるだろう。


だがだが、
典型的な日本人の主婦が、それを必要とするとは思えない。


だがだがだが、実際、
あの団塊の世代に、新興宗教がクソ流行った時代があるのも、確かなのだ。



・・・
それは何故だ? 

・・・
そこんところを考えてみると、どうしても「馬鹿」で「暇だったから」という結論にしかならないんだよ!!!



厳しい生活の農民が、最後の希望として異国の信仰にすがっていた状況、隠れキリシタン。 

そういう人からまで宗教を無理に引き剥がそうとは、さすがの自分も思わんよ。

この場合は、流石に「毒矢のたとえ」も当てはまると思う。
彼らの苦痛だらけの日常を根本から改善できないのなら、宗教は「その間は」必要かもしれぬと。
だから、宗教の「癒やし効果」という面で、否定し難いことが出てくるかもしれん。


だが、何故、暇な日本人主婦の自分の親が宗教にハマったんだ?

「癒やし効果」は関係ないはずだ。 宗教の害を考えれば、必要性なんてないはずだ。


で、実際、彼らを見てると何となく分かる。


彼らは、暇なときは本当に、やたらと宗教の本を読みまくっている


彼らは、そういうのを暗記するレベルで覚え込むのが、本当に好きなのだ


これはもう、「癒やしや救いのための宗教」ではなく、「宗教を覚えるための宗教」になってるんだな、と、見てて分かる。

中毒化して、
手段が目的になってしまってるんだなーと。



自分は宗教を信じてる人のことを「馬鹿扱い」しまくりですが、
一応フォローしておくと、彼らは「記憶能力」「勤勉さ」自体は、実はあると思うのです。


彼らの宗教の本を熱心に読みまくる姿勢というのには、凄まじいものがあります。
 (自分の親の本棚、ほんとうに凄いぞ?)
 (よくもまぁそんなに次から次へと、新しい宗教関係の怪しげな本ばかり集めるよなぁと)


でも、その向かい方というのが、ひたすら暗記、反復、暗唱・・・そういうのばっかなんですね。


なんというか、
「円周率をひたすら覚えて、その桁数が多いことを自慢して頭がよくなったと思いこんでるタイプの馬鹿」みたい
宗教の本を読みまくってる連中には、そういうのを感じます。

(そらまぁ、自分の脳で考える能力が衰えて、ひたすら「教えを乞う」ことばっかしてきた結果だからなぁ)
(「すぐに答えがほしい!次の教えを!次の教えを!」ってなるよなぁ)


・・・
というわけで、やっぱり宗教を信じてる人は馬鹿なんです。 (結論)



そして、現代日本においては、
宗教による「癒やし効果」というメリットからの擁護、これも必要ありません。

そういうこともわかりました。


(それでも弱者のために信仰は必要!みたいなこと言うのだろうが、それはどの立場でいうのだ?
(自分には、弱者から金を搾取するのが目的の新興宗教「側」の人間が言ってるとしか思えない

(これは、麻薬中毒者には麻薬が必要なんだ!とか言ってるのと同じじゃないのか?)
(つまりそれは、「宗教が最初からなかったらどれほど良かったか」ということが分かるだけじゃないのか?)
(最初から麻薬の味なんか覚えなきゃ良かったんですよ!)


で、これで 宗教の「道徳面」、「文化面」とかからも、一応は斬ることが出来たかと思います。
(あとついでに「癒やし効果」という面からも)



「道徳面」に関しては完全にぶっ殺したつもりです。

が、
「文化面」は、まぁ難しい。 回り道したあげく、結局、相当条件を限定してしまった。 
(だが、日本人だからこそ条件を広げられたとも言える筈なのだ)


とにかく
文化は文化として置いておいて、「もう宗教は本気には取らない」と、
そういう放置のしかた、そういう宗教との付き合い方も、出来るだろう、という感じ。


理屈の面、
認識の面、
道徳の面、
文化の面、
癒しの面、

・・・

これで一応、宗教のほぼ全ての面にトドメをさしたつもりなのですが・・・

ズタボロに切り刻んだつもりなのですが・・・


じゃあ
実際問題これで完全に宗教を抹殺できるか、
これを読めば
完全に人間は宗教を捨てて生きてられるかというと、まだまだ、まだまだ、最後の最後のところで「何か」が残っています。


それはもう、実際に無宗教として生きていこうとする際の「心のあり方」という問題。

「実践」の問題。


(宗教が本当に最初から無くなった)次の世代の人間とか、
多くの日本人は既に大丈夫でしょうが、それでも「宗教を捨てられない人間」というのが何故大勢いるのかというと、
急に信仰を捨てると、心に「穴」が開いてしまうからではないでしょうか。


それまでずーっと、心の中に神や仏を置いて、それを拠り所にしていたのに、実際問題急に捨てられるもんかいねと。


で、やめられないと。 まぁ麻薬ですね。 


全てを斬ったつもりでいても、宗教は、こんなふうに生き残りやがるのです。 なんてしぶとい野郎だ。


大体、「宗教を信じてない人間は醜い」という価値観もあります。
昭和不老不死伝説 バンパイア
(あーちゃん ↑でもコイツは悪役なので安心して) (見れば分かる)


こうなると、文化・道徳面で斬っても、「美意識」で残りやがります。


つまり、神も仏も信じない人間が何を信念に、どう生きていくのか、という問題。


実際問題、
「科学」 では 神の「代替」にならないという問題があります。 



二回目の記事のように
科学的思考を身につけるのはあくまで「姿勢」であって、
「心の拠り所」の「代わり」にはならんだろうからです。


で、
神を捨てた人間が次に飛びつくのが「金」とか「労働」だったりもするわけです。
労働に達成感を感じ、それを心の拠り所にすると、
かつての日本人のようにワーカホリックになるわけです。


で、
神も仏も信じない人間が、己の欲求だけを最優先にして、金儲けだけにいそしむ姿を想像してみろと、

そんな姿は醜いだろうが?
と、そういう話もあるわけですよ。

エコノミックアニマル(死語)



三島由紀夫の「遺言」とかも、そういうことかもしれん。 あれは「天皇」を「宗教」のように置き換えれば、同じことだろう)

日本はなくなって、その代りに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、
或る経済大国が極東の一角に残すのであろう。
それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。



天皇という「ドグマ」なくして、
単に己の利益のために経済活動をするだけの一国が成り立ったとして、それで何になるの? みたいな話だ。


だが自分に言わせりゃ、それで何が悪いのかということである。


いや、
というか、きっと日本人は大丈夫ですよ。


日本人は神を捨てられました。 (室町時代に一回捨てた。戦後、完全に捨てた。天皇教も捨てた)


で、しばらくは戦後経済成長とかやってて、「エコノミックアニマル」とか呼ばれてたけど、
今、そんなテンションでも無いでしょう。


「金が全て」「金儲けバンザイ」なんて価値観の人、実は素で減ってきてるんじゃないかと思うんです。
 (「建前」とか、「強がり」とかじゃなく、「素」で、)



カミを捨て、 カネを捨て、 じゃあ次は何を心の拠り所にして生きていくのか?



ここんところで
自分は、「思索」「創作」で十分じゃないかと思ってるんですが、駄目でしょうか?

もうそれでいいでしょう。

てか、それしかないでしょう。




そして、案外みんな、そのステージに段階的に移行していけてるでしょう。

神→金→創作

信仰→消費→創造


特に
日本人が、世界中で最もはやく、このステップを踏めていると思うのです。


世界で一番、無宗教の民族で、 

一時的に金の亡者になったけど、 

それも急速に失うことで、今、丁度よい価値観を掴みつつある


なんと必然的な進化を遂げられて来たことか!


皆、なんか作ればいいと思うよ。

なんでもいいよ。

まさに、黒澤明の「生きる」ですよ。 (←これ何度も言ってるわ 多分)


どんなしょうもないモノでも、物を作るのは本当に心が満足するのです。

宗教を信じて、祈ってるだけ、
宗教の本を読むだけに費やす何もしない人生よりも、

消費主義だけの人生よりも、

価値を産んだり物を作ろうとする人生のほうが、
よっぽど生きてる意味があるというもんではないでしょうか?
 (勿論人生は無意味だといつも言ってるが)
 (でも、宗教は無意味以前に害悪なんだよ!)



いや、それでもそんなんやっとれんわメンドイわ無理だわと思うのなら、
それでも、宗教に寄りかかりたくなるほど「心に穴がある」と思うのなら、


せめて、SNSとかでもやっててください。 そう思う。

SNSで無駄に繋がりを求めるのはバカバカしいと自分は個人的には思ってるけど、

宗教にハマるのよりは百億倍いいわ。 だから認める。



はい。やっと終了です。
というわけで、これが自分の思う宗教全否定の話です。

ニート版、「神は妄想である」でした。

ドーキンスも言えてなかった部分も多少は言えたつもりです。 
特に、最後のフォローが重要。 つーかそれが言いたいだけ。


ずっと書きたいと思ってたことをようやく書けた筈なのに、満足感はない。



だって、これで何かが解決するとも思ってないし。

なぜなら、自分は自分の家族を宗教から開放させることを諦めてるわけだから。

こんだけ考えてても、これだけ言っても、やっぱりやめさせることは出来ないんです。 (何ソレ!?)



やめさせることが出来ないから、こういうことをずーーーっっっと頭の中で考え続けている。

もう、いつもいつもこういうことばかり考えているので、こういう話は素でペラペラペラペラ演説出来ると思う。

思っているが、それでもやはり、実際の自分の周りのことは何も解決せんのです。

そういう虚しさがありますね。




はぁあ、
宗教の教祖、死なないかなぁ。 (結局そればっかり願っている)


関連記事
[ 2017/01/26 11:08 ] ニートメソッド | TB(0) | CM(9)
非常に楽しく見させてもらいました。

ただ、一方で三国志など多くの歴史を見た上でまた書いてほしいなと思ったり。
(たとえば、古代ローマで敵対者スッラの討伐に行った3万人の兵が砦建築工事をのんびりやっていただけで、将官以外の兵が脱走して寝返ったり、基本的に人間は宗教・コンプライアンスより人とか雰囲気についていくのです)

そうしないために悪知恵を働かせた結果が今の宗教なりコンプライアンスの歴史になっていく訳で組織の泥臭さとかそういった描写も欲しいなと思ったり。(つまり、あなたがその脱走された将官だったらどうする?とかね)

ただ、BYNEETさんの言う通り本題からは脱線してしまう話題でもあるので、絡める必要がないんですよね。ただ、別のテーマとして機会があったらぜひ書いてほしいです。
[ 2017/01/27 21:44 ] [ 編集 ]
追記。砦建築工事をやっていたのは、スッラ側です。
相手に戦う意志が低いと感じ、相手の陣営に飯を食いに行ってそのまま居ついて士気が低下し寝返った流れ。
[ 2017/01/27 21:47 ] [ 編集 ]
100分で名著という番組で、創作だけでは孤独に打ち勝てないとかそんな話を見た覚えがあります。
創作していればそれで満足という人ももちろん居るとは無いと思います。ですが、それはレアケースであって、皆が皆そうなれるかというと無理だと思います。
それに、作品が承認されなければ苦い思いをする事にもなりかねません。それはそれで「マイナス」ではないでしょうか。
[ 2017/01/28 05:11 ] [ 編集 ]
要は宗教なぞ信じてる人間なんて 自分の心の隙間も埋められない悲しい生物 でしかないのですよ自分の身内もそんな人ばかりです。宗教やってれば集会だとか開いて同じ連中が集まって寂しくならないし自分の過ちや知識の欠落はでたらめな教義や話でとりあえずごまかせるしまー傍から見れば滑稽にしか見えない、こういう馬鹿が塵も積もればで政治的に利用できるからお金を取らなくても法人はやっていけるんですな。○○党の人に投票しなきゃ日本は駄目になる~とか、もうね.....こういった事実に気づいてからは宗教に価値はないと思えました。
[ 2017/01/28 19:23 ] [ 編集 ]
コメントすみません。
現代人が宗教に嵌まる理由は、悩みや寂しさなど心の隙間を埋めるためという側面もあると思うのですが、それは宗教に興味を持つ最初のきっかけに過ぎないと思います。ある人がある宗教を知って、深く嵌まる原因は、その人がその宗教について詳しくなったからです。宗教に嵌まったから宗教に詳しくなったのではなく、宗教に詳しくなったから宗教に嵌まってしまったんだと思います。人間はある物について一定のところまで詳しくなると、その物を好意的に感じ、その物を否定的に見づらくなる性質があると思います。愛着が湧くのかもしれません。最初は嵌まるつもりなんてなかったのに、その宗教について詳しくなるうちに、その宗教さらには宗教そのものを好意的に捉えるようになっていたなんてこともあるかもしれません。
[ 2017/01/30 01:59 ] [ 編集 ]
コメント返信
> 名無し さん



> 基本的に人間は宗教・コンプライアンスより人とか雰囲気についていくのです)


そういう「人間の緩さ」を信じたいとも思いますね。

第一次世界大戦のときのクリスマスに休戦になったりとか、
敵と会敵してたけどお互いに見て見ぬふりしたりしたエピソードとか。



>相手に戦う意志が低いと感じ、相手の陣営に飯を食いに行ってそのまま居ついて士気が低下し寝返った流れ。


なんか思い出したのは「イワンの馬鹿」ですね。
市民が全く抵抗をしない国に攻め込んでると、兵士のやる気がなくなる、みたいな話があったと思います。


相手に士気が無いことがそのまま戦争を起こさないことに繋がると。

・・・
なんかこういうこと言ってると「無防備マン」みたいな気がしてきますが、
歴史的にそういうこともあったんですかね。


[ 2017/01/31 18:36 ] [ 編集 ]
コメント返信
> aki さん


> 100分で名著という番組で、創作だけでは孤独に打ち勝てないとかそんな話を見た覚えがあります。


(自分的には、平気な気分なんですけどね、今のところは)


痴豚様信者としても、
「100分で名著」は全話みたいと思ってるんですが、
どうしてもこぼれ落ちてしまいますね。 (あと基本的にtorneで録画した番組は二倍速で見てしまうのでw)



> 皆が皆そうなれるかというと無理だと思います。
> それに、作品が承認されなければ苦い思いをする事にもなりかねません。


そうですねー。

そうなるとこのへん、自分が言ってるのも実は「強者の理論」なのかもしれません。

 (自分なんぞが強者????)



この辺は「山月記」ですねー。

人間は「発表」が辛い、「評価」が辛い、 故に埋もれてしまう。 切磋琢磨をやめてしまう。
作品を世に出すのをやめてしまう。


これらのハードルの高さは、今、ネットによって相当下げられたとも思いますが、

(例えば、あの「虎」だって、ネット環境があれば、自分の作った詩を世界に発信することもできるのです)

それでも、ネット上でなんか創作やろうと思っても、
辛いことの方が多いと感じる人もいるかもしれませんね。 (そうやって考えると自分もよくやってんなという感じですが)



まぁこの辺はもう、
そういうことに耐えること自体が創作としか思えないですし、

もしもなんの逆境もなく褒められるだけだったら、多分退屈すぎて、逆に心の拠り所にはならないんじゃないかとも思います。
けなされてナニクソ!と思うのも含んでるんでしょうね。



あともう、それでも辛いのなら、
別に道は「創作だけ」とも書いてないですね。

それでも心に穴が開いていて辛いなら、今はSNSがあると。 


今、
人間の「57億の孤独」(カイジ)を埋めるのは、宗教じゃなくて、通信技術、SNSなんじゃないかと、

少なくとも、宗教の有害さからくらべれば、SNSはよっぽど無害だろうと、そういう風に思っています。
[ 2017/01/31 18:49 ] [ 編集 ]
コメント返信
> 無神論 さん


> ある人がある宗教を知って、深く嵌まる原因は、その人がその宗教について詳しくなったからです。宗教に嵌まったから宗教に詳しくなったのではなく、宗教に詳しくなったから宗教に嵌まってしまったんだと思います。人間はある物について一定のところまで詳しくなると、その物を好意的に感じ、その物を否定的に見づらくなる性質があると思います。



そうですねー。

この辺も多少は、自分の親とかを引き合いに書いてるつもりですが、
やっぱ宗教は、宗教の教義を覚える事自体にも、夢中にさせる要素があるのでしょうね。



波動とか、御光とか、スピリチュアルとか、何星人とか、次元とか、オーラとか、
・・・

旗からみると何言ってるんだって感じの御託を並べてるのですが、


彼らからするとそれでも、「世界の成り立ち」「宇宙の仕組み」が
それでどんどん説明がついていってるように思っちゃうんでしょうね。

自分達が一番世界の仕組みを分かってるって気分になってくるんでしょうね。


するとこの辺、最新の科学雑誌を買い漁る心境と、それ自体は結構似てるのかもしれませんねw
(心境自体は、です) (内容の信憑性が全く違うのは二回目の記事で書いたとおり)

(宗教がやってることは、「循環論法の塊」みたいなもんですからね)



そして根っこの部分は「死からの救済」に繋がってますから、
もう信じるのをやめたくない。


「自分達が世界の仕組みを一番分かってるんだ!」
「人間は死んでも終わりじゃないんだ!」

このセットで信じ続けるんですね。 ほんとどうしようもないです。
[ 2017/01/31 19:02 ] [ 編集 ]
新興宗教がうんぬんの下りについて、信者側の気持ちに考慮が足りてないのが残念

宗教とは、芸能人とか障害者とか貧困家庭とか、騙されやすい心の弱った人から小銭を巻き上げてひどい話だ...という風な考えがあるようだけど
あれには騙されたくて騙されてるっていう側面もあるのね
半分くらいは宗教が擦り寄って来てるんだけどもう半分は信者側が擦り寄ってる
勿論宗教が消えたら解決する話じゃない
この場合の宗教はヤハウェも水素水もトマ美ちゃんも含めてだから

それと信じる人、宗教ハマる人は馬鹿っていうのは決めつけがましくて科学的じゃない
筑波大出たエリートがヒゲブタに命令されてサリン撒いちゃったのを一概に馬鹿とは言えない
その人なりの過程と考えがあったろうから、
「結果だけ見たらただの馬鹿じゃん」というのは正に思考停止
個人的には思考停止で結構だとも思うけど

その辺の「騙されにいく人」の存在を踏まえてもうちょっと続き書いて欲しいです
[ 2017/03/31 13:13 ] [ 編集 ]
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