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コミュ障について等々

 
4月は破滅的な気分になる時期だと思う。
自暴自棄というか。



今月のはじめくらいからずーっとそういう気分で
ろくなことを考えてこなかったのだが、

そういうときの気分で書きなぐった文章というのは
当然なかなかそのまま貼ることはできない。

で、そのまま放置してると、やはり後から読んでも
その時と今とではテンションが違うから貼ることはできない。

じゃあ「こういう気分を自分が抱えている」ということは一生表に出ないじゃないか!とか思ったりする。



自分は大量の文章を書きかけのまま放置しまくっている。

たまにはそういうのを無編集のママ貼り付けてやろうかと思ったりする。

そういう行為は良くないのだろうが、
やっぱ多少は意味もあるはずだと思ったりもする。

クソ文章だけど、ある特定の人3人くらいには読んでほしいと思ってるんだよ。

 (ちなみに今回の記事は「思ったりする」の塊だろう)
 (大体全ての文章の語尾なんてものは「思ったりする」で統一してもいいくらいなんだ )




 
ディスコミュニケーション系の話題 数個まとめ


言いたいことは山積みであったはずなんだ。


その思いを毎回毎回抱えたまま放置しているのだ。



・ブログを完全にコメント禁止にしようかしまいか ずーっと本気で迷ってる、という話

・自分の性格が滅茶苦茶悪いということを分かってないひとが多すぎる、という話

・もうこういうコメントは相手したくないと思ってしまう それはなぜか、という話

・オンラインゲーム内でも碌な事が起こらない、という話

・「コミュ障の本質とは何か」という話



・・・大体こういうことについて


性格とか
コメントとか
コミュニケーションが面倒くさいとか

・・・

そういうこと全般について、今月は考えすぎて、もう嫌になっている。

それ系統について考えつづけたことについて書いておきたい。


エイプリルフールくらいに
これをそのまま貼り付けてやろうかと思ってたけど、結局その時は貼り付けられなかった。



それを今やっぱ貼り付けてやろうとかいう話である。


最近人付き合いで疲れることばっかりである。

当然自分の場合「人付き合い」って言ったって、ネットでちょっと会話する程度のことである。

自分はそれだけのことでもドッと疲れるのである。



まず、

なんか嫌味?なコメントが付く

一応、コメント返信をする

自分のコメント返信の中に嫌味なニュアンスが混じってしまっていることに自分で気づく

自己嫌悪になってそのコメントを相手が読んだかどうかも確認せずに、自分で自分のコメントを削除する


という流れを、もう3回も連続でやってしまった。


こんなんばっかである。


どうしてこういうことになるのか。


実際こんな感じである

宗教全否定の記事についたコメント


・オウムでエリートがサリン撒いたの知ってるか
・宗教に騙され「たがってる」人のことを考えないのか
・宗教に信じる奴を馬鹿と決めつけるのは科学的じゃない
・思考停止じゃないのか
・・・

みたいなコメント。


そういうのに反論しようと思えば出来る。 ていうか実際にした。


自分の要点は

・オウムにハマったエリートはむしろ落ちこぼれだったという説がある

・つまり学歴はあるが落ちこぼれのような人間が、
 学歴があれば新興宗教の中では肩書で出世ができたので
 その出世欲がエスカレートしてサリンに繋がったんじゃないのか

・結局自分に言わせれば宗教にハマるやつは馬鹿である
 そう定めて問題ない

・統計的に、IQ的にも、そうである

・この「傾向」の話を、一部のオウムなどを取り上げて「反例」とするのも間違っているし
 オウムも結局はそういうことである

・そして宗教や疑似科学、水素水とかにに「騙されたがる人間」の気持ちを認める必要は一切ない
 ということ


・そういう風に詐欺師側や詐欺師に騙される側に歩み寄ったり甘い顔する必要はゼロだということ
 詐欺は詐欺なんだから
 詐欺師は取り締まる 
 騙される人は啓蒙する
 この2つで対応するしかないということ


・・・こういうコメ返信を、するにはすることはできた。

が、自分でもそのコメ返信に攻撃性や皮肉が大量に混じっていたことに嫌気がさして、消してしまった。



なんでこういうことになるんだ。


多分悪いのは

「思考停止」という言葉の使い方、

「科学的じゃありませんね」みたいな言葉の使い方だ。



オウムにエリートがいた。
だから宗教信じてる人も馬鹿とは限らない。


・・・
いやそれこそ思考停止じゃないのか?
学歴至上主義じゃないのか。


思考停止してる人から思考停止呼ばわりされたら誰だって嫌だろう。

だから

ついこちらも
嫌味に嫌味で返してしまう。


で、あとになって
自分のコメント返信に自分で嫌になって消してしまう。


ということだ。


最近ずーーーーーーーーっっっっっっっとこんな感じ。


自分の感覚。


コミュニケーションに、
嫌味とか皮肉とか、そういうのを混じらせる必要がどこにあるのかと、いっつもいっつも思っている。



サウスパークのサーカズムの回を見て以降、ずーっと思い続けている。
s16e08 Sarcastaball


あと、マウンティング気味の人たち。
なんでニート相手にマウンティングなんかしたがるんだ。


そもそもコメントが要らない。 何度言ってるんだこれを。


あと最近思っている酷いこと。

マウンティングをしてくる人というのは、何も「攻撃者」や「荒らしさん」だけには限らんよなぁということ。



なんかこう、アドバイスをしてくる人にせよ、なにかそういうのが混じっているのを感じる。


人が、教えて欲しいとも言ってないのに、教えてくる人。

それも、相手が分からんような言葉で教えてくる。


ボソッと、これ以上のことが聞きたけりゃ、「質問しかえさないとわからないようなこと」を
さりげなく、聞こえよがしに、意味深に、ひけらかすように、

ボソッと、教えようとしてくる人がいる。

自分は「そういう」コミュニケーションも最初から欲してない。


「アドバイス罪」という酷い言葉があるが、自分は半分くらいは、あの言葉が分かる。


本当に欲してないのだ。


自分が不要だと思っているコミュニケーションをまとめてみる。


・安易な同意
・安易な相槌

・挨拶

・不要な報告
・過剰な報告

・アドバイス罪

・攻撃
・嫌味
・皮肉
・揚げ足取り

・レッテル貼り
・マウンティング


・・・大体こんな感じだ



勿論、攻撃されるような馬鹿なことばっか書いてるのならそれも悪いだろう、

だが、どうも経験上、記事に攻撃・突撃してくる人は
「なんなのその理屈は?」というような滅茶苦茶なことを振り回しながら攻撃してくるので、

「自分の書いたクソ記事以上に馬鹿なこと考えてる人しか突撃してこない」
「そういう自分以上に馬鹿な人しか突撃してこない」
という感覚はあるんだ。


だからこの世には碌な攻撃がないと思ってしまう。


 (最近だと、「この世界の片隅に」の記事に文句付けてきた人のコメントには本当に呆れた)
 (あと「ディティールの話」のあとに、本当に荒らしさんに変貌してしまった人がいた)
 (あの人、ちょっと考えれば自分がおかしいことくらいわかってほしい)


要らないのだけ書いても分からんだろうが

じゃあ

「あってもいいかな」と思っているコミュニケーションの種類は


・提案

・間違いの指摘

・自分の知らないような価値観の提示

・お互いを高められるような議論のキッカケ
 (だがそもそも自分は別に自分から議論がしたいわけでもないから・・・)

・本当に必要なときの報告・連絡 (だが相談はいらない!)


大体こんぐらいだ。


それ以外は全部不要だと思っている。


あと人生相談も本当は要らない
(だがこれに関しては自分が一方的に要らないと思ってるだけで、相手は心底必要だと思ってるんだろうから仕方ないのか)


それから本当に難しいのは「リクエスト」だ。

「リクエスト」は、自分でも不要だと思ってるのかあってもいいと思ってるのか分からない。
微妙すぎて難しすぎる。


だからいつもいつも、今度こそブログをコメント禁止にしたいしたいと思ってるのに、
ずるずると続けてしまっている。


完全にコメント禁止にするとそれはそれで問題が起きると思っているからだろう。



だから
自分の考えとしては

ラジオで言うところの「ハガキ制」みたいなのがあれば凄く良いよなぁと思ってる。



(これも痴豚様が言っていることだが)

痴豚様は、今時メールでネタやお便り、なんでも簡易に送れる時代だけど、
そんななかでわざわざハガキで書いてきてくれる人を重要視してしまう、ということを言っている。


メールの安易な罵倒メール クレームメールなんか相手しないけど、
わざわざハガキで送られてきたクレームなら、ハガキ一枚うんじゅう円の重みがある分、

そのクレームを重く受け止めようと思っているワケだ。



自分は、ブログにもこういう要素があればいいのに、と思っている。

 (勿論 直接ハガキ制にするなんてのは無理だ
  何らかの形で、 別の形でそういう「重み」を実現できればいいんだが)


安易なハードルを越えて、

まとめブログの、2chのノリと全く変わらんような惨状のコメント欄とか、

ニコニコニュースのクソみたいなニュース記事に書きなぐるクソみたいなコメントみたいな、

ああいうノリで、


テキトーなコメントを安易にこのブログに書き込んで来る人もいるけど、


自分は、コメントというのはもっと

慎重で、
大仰で、
貴重で、

よほどのことがなければ

よほど伝えなければならない重要な内容でなければ、

滅多なことじゃ、打たないようなものであるべきだと思ってるんだ。

 (「親しき仲にも礼儀あり」を100倍くらい強化したようなことわざが必要)


 (いっつも言ってる ブログにコメントなんて「半年に一個付くかつかないかくらい」がベストの頻度だと)


だから、完全にブログをコメント禁止にするわけじゃないにしても、
もっとコメントというのにハードルをもうけられたらいいなぁとか思ってる。


ツイッターであれば
「140字ギリギリじゃないとつぶやかない」 みたいな縛りプレイしてる人がいるけど、 (自分もたまにやるけど)

ああいう感じだ。



そういう要素があれは、

同意にせよ、
批判にせよ、
まして「荒らし」にしたって、 みんなもっと真剣になるし、

 (自分は荒らしさんだって、どうせならもっと真剣にアラせと思ってる) (コメント削除エボリューションの記事で書いたこと)
 (同じ手で安易なことを繰り返すから相手されないんだよ)


そんな真剣なコメントなら、自分だって真剣にコメント返信すると思う。



とにかく自分の言いたいこととしては


コミュニケーションというのはもっと死ぬほど慎重であるべきだということ。
熟慮の果にギリギリ達成されるようなものであるべきということ。
それ以外は全部黙っておくべきだということ。


安易な

軽口みたいな

そんな会話など一切不要ということ。


 (この文章は過去に放置したtxtを貼り付けてるだけので話題は前後する)



議論のキッカケの部分に、

「これでは思考停止だと思います」
「考えが浅すぎます」

とか混ぜる必要一切なし。


考えが浅すぎますとか言ってきてる人に限って
「なんなんだそれは?」って考えで突っかかって来たりするから、本当に嫌になる。


だから、自分も嫌味には嫌味で返してしまいたくなる。 あなたのほうが考え浅すぐるでしょう???!!!と

そして自己嫌悪になる。

自分のコメントを消してしまう。


すると、旗からみると、

嫌味なコメントをされているのに放置している逃げ腰のやつに見えるかもしれない。

それも腹が立つ。


それもあるから、結局喧嘩腰のコメントというのは消してしまうことがある。

それプラス、ここには「割れ窓理論」の考えもある。


自分はこのブログのコメント欄を
どっかのまとめブログとか、
ニコニコニュースのクソみたいなコメント欄とか
トゥゲッターのマウント取り合戦とか、
ああいう雰囲気の場にはしたくない。


でもそういう罵倒コメントが一個でも放置されてると、
「ああ、このブログにはこういうコメントをしてもいいんだな」
「ああ、このブログ主にはこういう口調で話しかけてもいんだな」
という風潮がはびこるかもしれない。

そしたらもう終わりである。


そういうのもあって、
最近は本当に嫌味の混じったコメントをすぐ消してしまうようになってしまった。


本来、
昔の自分はもっとアグレッシブだったんだよ。

嫌味なコメントが付いたら、速攻で、それ以上の嫌味を見事なカウンターで返してやってたものである。



でも本当に、そういうのすら嫌になったんだよ。



だからとにかく言えることとしては、

「コミュニケーションの取っ掛かりに嫌味や皮肉を混ぜるのやめましょうね」、というそれだけの話なんだ。


「オウムにエリートがいたから宗教にハマる人間は馬鹿と決めるのは思考停止だと思います」

「この映画を褒めている人は戦争映画に何も学ばなかったということです」

「ディティールじゃなくてディテールですね」

・・・
その程度のこと言われたって、自分は完璧にカウンター入れる自信がある。


議論の取っ掛かりに皮肉を混ぜたって、
その皮肉に完璧に皮肉で返されたら、腹立つでしょ?


大抵そうなるんだから、そして腹立った状態で議論なんかしたって碌なことにならんのだから。



そしてその上で、

自分はもう絶対に自分からは他人に話しかけない。

議論を吹っかける気もない。

だから自分からは誰かに皮肉や嫌味を投げることはないということだ。

自分はそれを放棄している。


なんでみんな、そういう気分でいられないのか、という疑問。


もう一個。 こないだ消してしまったコメント。

自分の「ミュート論の記事」にこんなのがついていた。


「めんどくせー性格してんなー 私もミュートされてそう」

↑大体こんな感じのコメント。


自分はこのコメントも削除してしまった。
最近、随分削除基準が甘くなってしまって良くないかと思う。
でもやってしまった。


どう考えて自分がこのコメントを無意味で有害だと判断したか?



まぁ、要らないひけらかしが入っているというのが、もうウンザリするんです。



「私もミュートされてそう」

これを混ぜることで、

「これを書いている私はお前のフォロワー(相互)だからな?」ということを言いたいのだろう。


つまり、

「お前のことをめんどくせー奴だと思っている (攻撃者・批判者)である私も、お前を見ているんだからな?」

という嫌味を言いたいのだろう。 それくらいは分かる。


でなけりゃ自分のフォロワーであることを
ここに仄めかす必要がない。


単に「お前の性格は面倒くさい」とだけ書いておけばいいだけだ。



だが自分に言わせれば、それすら無駄なコメントだと思う。


ミュート論の記事に対して、そういうコメントを書いて何になるのか?


自分がミュート論の記事に書いてあることに対して、

反論があるとか、

この考えがどう間違っているかとか、

自分は本当はどう改善すればいいかとか、

そういうことを書き込むのならまだいい。



だが、この人はそういうことはせず、 (そして多分できないのだろう)

「めんどくせー性格だな」 という 「嫌味」を入れるだけのことしかできなかったのだ。



そういうコミュニケーションが、もう果てしなく無意味だというのです。



ミュート論の記事を読んで腹が立ったのなら、
そんな奴フォローしなければいい。
そんな奴相手しなければいい。


自分のミュート論の記事を読んで腹が立つような人というのは、

ツイッター上で「ウェーイwww」的なテンションで生きている人だろう。


自分がミュート論の記事に書いてきたような内容に抵触するような行為をしてしまっている人だろう。

診断メーカーとかやっちゃったことがあるんだろう。
アニメの実況とかしてるんだろう。
ガチャの報告とかしてるんだろう。


だから、腹が立つのだろう。



そんな人は、自分のことなんかフォローしなければいいだけのことだ。

自分の性格も知らずにフォローしてなんになるんだ。

でもその人は、腹が立った。 でも反論はできない。

だから嫌味だけを残す。

さらに、「私」が自分の(相互)フォロワーであることをほのめかす。

みたいなことをしてくるわけだ。


・・・

これらの行為が、自分には無意味の塊にしか思えない。


それで、
あんなコメントを書いて、自分になんて言ってほしかったんだ??


自分から言えることは
「そういうこと言ってくる人はまさにミュート論の内容に抵触してる人がふんぞり返って言ってるだけとしか
思えません。

そしてあなたは自分と相互フォローであることをほのめかしているようですが、

自分が「そのような人」を自分からフォローすることなんて絶対ないといえるので、

あなたからフォローしてきたはずです。
あなたから選んで自分をフォローしたはずです。
 (順序の重要性が分からん人はここ読んできてください)

なんでそれでミュート論の記事に攻撃をしようなんて思ったんですか?」



・・・
こういうコメント返信を、しようと思えばできる



でももうそんなのすら嫌なんだ。最近の自分は。


そっちから寄ってきたのだ。

そっちからフォローしてきたのだ。



それで、あとになってから、ミュート論の記事をよんで、

その記事の内容に抵触していることに気づき、自分がミュートされているかも、と考え、

それで腹を立てて、

でも何の反論もできないから、

「めんどくせー性格してんな」ということを匿名で書いてくることしかできない。

・・・


結果やることが、「チクリ」と嫌味を伝えてくる、ということなのだ。



そっちから、こういう性格の自分を、選んで、

そっちから、フォローして、それで相互になったであろうに、

そのくせ、嫌味を言ってくるのだ。




自分にはそれが 全くわからない。



自分のミュート論の記事に腹が立ったけど何の反論もできない人は、

黙ってミュートしかえしてればいいんだよ。 (そうは書いてないけど、実はこれが答えだと思う)


または、
そんなに不安になったのなら、
自分の名前を晒してくればいい。

「私のツイッターIDはこれこれです。
ミュート論の記事よんで不安になりました
あなたは私の事ミュートしてないでしょうか?」

って、訊いてくればいい。


そしたら自分は正直に答える。

ミュートしてるかしてないかちゃんと答えるよ。
「過去にこれやったからこの時以来ミュートしてますね」とか、ちゃんと答えると思う。


それなら、まだ意味のあるコミュニケーションだと思う。

なんでそっちをやらないのか。


こういう無駄な「チクリとした攻撃」をやってくる人、

無駄な「イチビリ」「イジリ」をやってくる人、

自分はもうそういう人に対して、
リアルでもネットでも、 相手する気力がゼロになってます。



碌なコミュニケーションができないから 嫌味から入るコミュニケーションしかできないんだと思う。


自分はそういうイチビリから入ってくる人は完全に無視するようにしています。


山野一 四丁目の夕日


これだよこれ。



自分の行動基準からすると考えられないようなコミュニケーションをしてくる人、

ありえないコミュニケーションをはかってくる人に対しては、

無視しかないと思う。


他にもムカツイていること。

ゲーム内のコミュニケーションでも自分はどっと疲れる。




こないだ、「ブログ読みました」ということで ネトゲ(DDON)内でフレンドになった人がいるのだが、

その人に(週末)GM行きましょうと言われていたのだが、

結局、期間内には全く誘われなかった。 つーかずっと無視されてる。


これがもう、どうなっているのか全く自分にはさっぱり分からない。



自分はゲーム内でも、ブログ内での返信でも、↓こう答えている。

「自分は性格上、自分からはGMに誘ったりすることは絶対にできないから、
 もしそんなに一緒にGMに行きたいのなら、そちらから誘ってください」

と。


その上で、誘っておいて、週末に自分を完全に無視するということは、どういうことなの?

(一週だけなら間違いかもしれないと思って、自分は二週間は耐えた)
(が、フレンド申請されてから、結局二週間無視されっぱなしである)


もう、「コイツは「誘わないと来ない」ってことはいらねー」ってこと?

自分はそう解釈するし、そう解釈されてもおかしくないことをされていると考える。



そう解釈されて困るのなら、そう解釈されるようなことをしなければいいのに、
そう解釈されるようなことをしているのだから、そう解釈されてもしかたがないと思う。




考えれれる1つの可能性としては、自分のコメント返信をその人が全く読んでないということだ。


「GM行きましょうね 行きたくなったら誘ってください」と、その人は書いている。

そう書いておいて、それに対する自分の返信
「自分はこういう性格の奴なので自分から誘うことはできません」を読んでないとする。



よって、

その人は
「なんでコイツ週末になってるのに、GM誘ってこねーの? こんな奴いらんわ」と思って、無視してるのかもしれない。



・・・自分はそこまで解釈する。



これも結局、

自分の言いたいことだけを伝えるだけ伝えてきて、 (GM行きましょう 誘ってください)
こちらからのレスポンスは読む気一切無しだから、こういうすれ違いが起きることになるわけだ。



自分がコミュ障だから、ネトゲ内でもソロ専無言クランやってるってことくらい、
最初から分かってて誘ったんじゃないのか??


それとも、色んなドラゴンズドグマオンラインのブログをテキトーに読んでみて、
とりあえず誘えそうなやつに片っ端から「唾つけといただけ」のことなのか?


自分は、そのツバがかかった一人であるだけにすぎないのか?

そんで、自分からは話しかけてこない奴だから、もう完全に無視してるってだけってことか?

そこまでは完全に読めるからな????



いっつも思うのだ。



こういう、何も考えずに自分の要望「だけ」押し付けて寄ってくる人が、 「強い」よなぁと
いつもいつも思う。



そんで、
自分みたいな奴が勝手に色々考えすぎて、凹んで疲れ果てているんだから、何がなんやらわからない。




ああいう人は、きっと、ネトゲ上でGMに連れていく「駒」が欲しかっただけなんだ。
誰でも良かったんだ。

きっと、他人のことなんか人間だと思ってないのだ。 ポーンだ ポーン




どうすればいいんだ。


この誤解が解けないウチは
その人がオンラインなのを「コミュニティリスト」で確認するだけで、こっちは気分が落ち込むようになってしまうというのに。


こんなだからオンラインゲームでフレンドなんか作るべきではなかったんだよ!!


もうずっとオフライン設定にしてやろうかと思ったりする。


(また別のtxt からの貼付け 同じような別の話題)


まず

自分の性格が「滅茶苦茶悪い」ということが分かってない人が多すぎるんじゃないだろうか。

だからコメントなんかくれるんだよ。

そこがまず勘違いしている。



最近思うこと。

自分は自分のことをコミュ障だと思っている。 間違いなく。


といいつつブログの文章自体はずいぶんとダバダバと口語調で くっちゃべッてるよなと自分でも思う。


一応はコメントの返信とかもやっている。


じゃあ自分は親切でフレンドリーな人間なのかというと、そんなことは全っっっったくないのである。



自分が性格最悪で、誰一人の人間にも心を開いたことが一度もないということを
ちゃんと分かってない人が多いんじゃないかと不安になるので、こういうことを言うのである。


「自分の性格が悪い」ということをちゃんとしらしめて置かないと面倒なことになると毎度毎度痛感する。


そういう話をする。


自分はコミュ障である。



リアルの自分は誰に話しかけられてもまともな応対というのをしたことがない。

「yes」か「no」でしか答えられないような質問にしかマトモに返事しようとはしないし
ソレ以外は「はぁ」「まぁ」だけですまそうとする。


日本語は「はぁ」と「まぁ」さえマスターすれば日常会話がなんとかなる、物凄い言語だと思っている

(これに「いえ」も足せばパーフェクトだね)



挨拶をされてもうまく返事ができない。


声が小さすぎて自分の挨拶が相手に聞こえてるか聞こえてないか全くわからない。
そういうことをイチイチ考えるのすらもう嫌だ。


だからこの世から挨拶なんて物がなくなればいいと、いつもいつも思っている。

自分の「挨拶」というものに対する憎悪には凄まじいモノがある。

ここまで憎めるかというレベルである。

いつか挨拶を全否定したい。 その起源から。


だがその根源とはなんなのだろう。

何故自分は他人の会話を無視してしまうのだろう。


そういうことが長期的に不利、 (それはニートになるだとかそういう末路)
だということは自明であるにもかかわらず、

それでもなお他人とは死んでも会話なんかしたくないのである。

その会話を拒絶したくなる根源的理由とはなんなのかということを考えていく。



なんでこういうことを自分で分析したくなったのかというと
これも色々同時多発的に理由がある。



ツイッター上で自分のやった、随分な横柄な態度、怒り、うんざり、そういうのが爆発してしまった事件。



あとは「古見さんはコミュ障です。」という漫画があるのだが、
あのような漫画で描かれているコミュ障は嘘っぱちだ! という思いがある。


自分の考える、コミュ障の本質とはこういうものだ!という思いがあるのだ。

(書いてることの順番がもう滅茶苦茶)


「古見さんはコミュ障」という コミュ障の人間がヒロインの漫画があるのが、
自分に言わせれば、あのような描かれ方のコミュ障というのはデタラメだと思う。



あの漫画の古見さんというのは、単に会話ができなくて何にかんしてもビビってるだけの人のように思う。
急に話しかけられてビビるとか、他人の反応にビビるとか、そういうことか。

(あの漫画のファンさんは怒らぬように)(別に自分はアンチではない) (アンチでもいいけど)


(そもそもなんで漫画を勝手に読んで腹立ててるんだ?というのもあるが)
一応一話は無料で試し読み出来るが
(そこはやっぱり、「コミュ障の人間がヒロインの漫画!」って言われたら気になるじゃん)
(で、読んでみたら、完全にデタラメが書かれてるんだから、腹立つよ)



いや自分も外面的に見ればおなじようなもんかもしれん。


(自分も親戚の人が相談に来た時、「紙でないと会話ができない」ということが嫌というほど分かったりした)

(コミュ障こじらせると本当に紙で文章で会話するようになるよ)




だが自分に言わせれば、「内面」が全然違うのだ。


(そもそもここでの「コミュ障」という言葉の定義や使い方というのが結構謎なのだが)
(どもりとかの実際の障害とかそういう話なのか)
(それとも単なるスラングの話なのか)


(だいたい古見さんの漫画の第一話で、
 コミュ障とは「別に他人との関わりを持ちたくないとは思ってない」なんていう信じられない定義をしているわけだから)
(この時点でもはや自分の思っている「コミュ障」とは別の言語と言わざるをえないワケだが)


(まぁ「コミュ障だって人それぞれだろ」というだけの話なのかもしれないが)

(でも自分的にはこういう意見が一番近い)
(アマゾンのレビューへのリンク)


で、もう分かってしまったのだが、 自分の場合、

「心が狭いから」
「性格が悪いから」

(もしくは全てを計算しつくそうとしてしまうから)

他人に対して一切の反応をする気がなくなる、というのがあるのだと思う。




これはこの回にもちと書いたことだと思うが、

もうちょっとだけ正確に、自分が他人とのコミュニケーションを完全に放棄したくなる瞬間とそのときの心の動きというのを
全部説明しておこうと思う。




その時の具体例として

最近の自分のツイッターでの事件の話をする (事件でもなんでもないんだが)
(この時点でこの文章がどれくらい前に書かれたかが分かる)


◆Zbrush事件


自分は巨神兵にせよシンゴジラのリメイクにせよ、途中のwip画像をツイッターにたまに上げたりはするのだが、
シンゴジラのリメイクを始めた時に、


「これはZbrushで作ったのですか?」
「ついにZbrushを買ったのですか?」
みたいなリプがついたりする。



これがもう、自分には意味がわからない。



自分はSclptrisという無料ソフトしか使っていない。

そのことはツイッターにも書いているしブログにも何度も書いているしニコニ立体のTipsにも書いている。


・このままSculptrisで無料でいくのか、
・それともZbrushCoreを二万出して買うべきか?

みたいなことだって、自分は真剣に悩んでいたのだ。




勿論、自分は自分のブログを更新しても、殆どその更新通知を「切っている」のでツイッターに連携されることはない

(なんでブログを更新しているのに連携を切るのかというと)
(それは自分が自分のブログが大嫌いだからである)
(本気で嫌いなんだよ)

(だからしょうもない更新なんて誰にも読んでほしくないと半ば本気で思っているから)
(迷惑だし皆見たくないだろうし、ゴミ情報だと思っているから、切っているのだ)




そんな風にブログの更新通知をロクにしない自分だからこそ、

そのようなこと(何のソフトを使っているか)を全て理解してくれと思うのが
自分勝手だということくらいは自分にも分かっている。 そこまでは分かってる。



だが、それでもなお、

もしもあのようなシンゴジラのスカルプトの画像を見て
「おっ Zbrush買ったのですか?」なんて質問をするのはおかしいのだ。



なぜならソレ以前に何度も何度も巨神兵のスカルプト画像を上げているし、

巨神兵の作り方に関してだけは、ブログの更新通知もツイッターにしているし、

その記事にはニコニ立体のリンクも貼ってあるし、

だから、自分の巨神兵を見ているくせに、巨神兵の時もリプを投げているくせに、

シンゴジラの時になってから「おっ Zbrush買ったのですか?」って質問をしてくるのは

何重にもおかしいし意味がわからないということになるのだ。



(だからそのような質問は、巨神兵を自分が作り始めてその画像をツイッターに上げた時に既に済ませて置くべきだし、)
(その人は既にその時のも話しかけて来ているのだから、余計に意味がわからないということになる)


・・・で、結論として見えてくるのは


その人が


・人のツイートなんてロクに読んでいない

・人のブログなんてロクに読んでいない
 (そもそもブログにツイッターでリプしないでくれと何度も書いてある)

・人の制作過程に実のところ興味なんてない

・人が何のソフトを使ってるのなんかしったこっちゃない 実は聞いたところで覚える気なんかない


ということである。 自分はここまで読める。




つまり、興味ないくせに質問だけはしたい、覚える気なんてないくせにコミュニケーションだけは図りたい、というのを、
自分はこのやりとりだけで一瞬で見抜いてしまうのである。


だって、本当にZbrush覚えたい、Sculptris覚えたいって人なら、
既に自分のブログの3DCGの項目だけは読んでるだろうし、そしたらすぐに分かることだろうに。
そうなのだ。本当に知りたけりゃとっくに自分で調べておくべきことだろうということだ。





まじで、自分はこのようなことが全て一瞬で分かるし、一瞬でウンザリするのである。

本当に 本当に、「一瞬でウンザリする」のである。




だからそのようなリプがそのような人から来ると、

「何故なのだ!!???」という困惑と疲労感が一気に襲ってくる。



困惑と疲労感。


自分が他人と話していて感じるモノの正体は、これとしかいいようがないと思う。




興味なんてないくせに質問するなよ、興味がないのはこの一瞬のやり取りで全部わかってしまったから、

だからそんな社交辞令みたいな質問に答える義務なんて無いはずだよなぁ、

と、本気で思ってしまうのだ。



(痴豚様もよく言っている)
(本当は興味なんて無いくせに質問をしてくる奴がうざくって仕方がないと)
(「もう答えてる最中から興味なくしてるだろお前!」という怒りの話)
(『答えてる時点で、もう聞いてないんだよ、コイツが(怒)』)


こんな話
もうウンザリだろうけど、もう一つの例も提示する。

(自分が他人と会話する際にあたって、しょっちゅうこのようなことしか考えてないということを全てあからさまにするために)

(ちなみに、これらの会話で該当する個人を特定できないように、一連のツイートは全部削除してます)


◆雲黒斎事変


AbemaTVで、クレヨンしんちゃんの映画の一挙放送をしていることがあった。 (これもだいぶ前の話だなぁ)


勿論自分は 映画の実況なんかをツイッターでやるようなことはしないのだが、

「雲黒斎の野望」だけはクレヨンしんちゃんの映画の中でもトップクラスの傑作だと今でも思ってるので、

観てない人はマジでこの機会に観ておけよ、というつもりで、めったにそういうことはしないのだが、AbemaTVのURLまで貼った。




で、そこで
「しんのすけがやった唯一の殺人がフリードキン・珠死朗なのだなぁ」、と、自分は呟いた。



で、それについたリプが
「えっ!しんちゃんって人殺してるんですか?」みたいなリプである。



これでもうまた自分は、ゲッソリするほどウンザリするのである。



なんで、そんなことが気になったのなら、
今すぐにそのAbemaTVのURLに飛んでいって、雲黒斎の野望を見に行かないのか。


自分はその映画を、「クレしん映画の最高傑作」だとまで言って「推している」のである。



そのような質問をするということが「目の前のその映画を見るつもりはありません知ったこっちゃありません」という態度の表明にほかならない
ということに何故、気づけないのか。


そんな質問をしてしまうことが失礼に当たるという可能性について「何故、思い当たらないのか」

(だから自分だったらそういう質問を他人に投げたりすることは絶対にしない)
(絶対に失礼が起こらないように慎重にする)


(つまり、「もし相手が心の狭い人間ならこれだけで腹を立てるということがありえる」ということに想像が及ばないのか)
(そして実際に自分は心が狭い人間である そのこと自体も、もうこのように何度も何度も訴えてるというのに、それも知らないのか)



そもそも、「雲黒斎の野望」という傑作を今更見てない人間がいるというのがあり得ないし (ここは暴論)
そんなのはクレヨンしんちゃんに興味がある人間だとは思えない。

そんなに「クレヨンしんちゃん」というものに大して興味がないのなら、
そんな質問なんかしなければいい。


それに
もしも今後いつか「雲黒斎の野望」を自分でレンタルでもして見るつもりがあるのなら、
やはりそんな質問はネタバレになるからやるべきではない。


そもそも、そもそも、

その

「えっ!しんちゃんって人殺してるんですか?」っていう安易な質問に、自分はなんて返答したらいいのかが謎だ。



「はい、これこれこのような流れで、しんちゃんは敵のフリードキン・珠死朗を撃ち殺しているのですよ~」



みたいに、懇切丁寧に全部解説しないといけないの?  その映画を、まさに放送してる最中に? ありえなくないか?

なんで映画解説実況しなきゃならないの?


その映画を見る気も調べる気も全く起こしてないことが見え見えの態度を全力で表明している人に、そんな解説をしないといけないの?


そもそも、そもそもそもそも、おかしくないか?


「しんちゃんは殺人をしてるんだなぁ」というツイートをしたとする。



そのツイートに、
「えっしんちゃんって殺人をしたんですか?」というリプがつく。



そのリプに
「はい、しんちゃんって殺人をしたんです」って答える。



この や り と り が、自分には あ ま り に も バ カ バ カ し く 無駄にしか思えない。



なんでそんな、トートロジーのような、
無意味で無駄でロスだらけのコミュニケーションをしなければいけないのか、マジで意味がわからない。

(「世間話ってそういうものよ」ということかもしれんが)

(それなら自分は世間話なんてこの世から絶滅していいと思う)
(少なくとも自分は絶対に他人に世間話を振らないし、)
(だれも自分に世間話を振るなと思う)


(そして一度でも自分に世間話を振って無視されたなら、それで腹を立てたなら、)
(二度と自分なんかに話しかけてこなければいいじゃないか なんでそれを学習できないんだ
(自分は学習してほしくて無視してるんじゃないのか)



だから、もしも他人に対してなにか質問がしたくなったのであれば、

そのときの「質問の形式」というのは、相手の言ったことをオウム返しに聞き返すような形式でやってはいけない、ということが分かってくるではないか。



そういうインタビューが一番最悪だってこと、そういう質問が一番バカバカしくって返しづらいってことくらい、想像してほしい。



そういう想像が出来ないからこういう質問になってしまうのだ。


そんな人に、イチイチ返事しないといけないのか?


映画やってる最中にその映画の内容を聞くような質問。


そんな質問にも、ちゃんと答えないと「失礼」ということになってしまうのか? 


だったら自分は「失礼」でいい。


そうじゃなきゃ相手が成長しない。


だから、自分はそこまで考えた上で、相手を無視するのだ。


というわけで、やはりこのような一言のリプから自分が読み取れることは



・クレヨンしんちゃんに対して、さほど興味も関心もない

・眼の前のアニメが、大傑作だと推薦されたところで、 見る気も調べる気もない

・つーか見ていない 一生見る気もないらしい (だから映画のあらすじなんかを質問してくる)


・だが質問だけはしたい (覚える気もないけど)

・無意味なコミュニケーション「だけは」したいらしい 



・そのようなオウム返しの質問がバカバカしくて返事しづらいということ
・そして自分が返事がしづらい質問をしているということすらも想像できないのだろう




・・・みたいなことなのです。


マジで自分は誇張なしに、一瞬のやり取りの中でこのようなことが頭の中を駆け抜けます。

そして勝手に、どっと疲れて、相手に返事する気力が完全になくなります。





(それでも一応は表面上は普通に返事したりするんだよ? なんとかして)
(でもそのあと自己嫌悪ですぐにツイート削除する)




で、そのあと幾つかの嫌なことも連鎖して、自分の怒りが爆発した感じ。


自分はこんなふうに他人のことを見てるけど、それを表面には出さないようにしている。
そうやって応対している。

それなのに、その応対に、

その人自身が馬鹿にしたような返しをしてくることがあった。

そこでもう自分は我慢ができなくなった。


こっちはアンタがどれだけ馬鹿なリプを送りつけても
それを表には出さないで、なんとかしてちゃんと対応してたのに、

そっちからは揚げ足取りしてくるんだ?????




自分はもうしばらくツイッターで「誰にも返事しないモードにはいるなぁ」という感じ。

(元からほぼそうだけど)


・・・
そういうことなのだと思う。


コミュ障というのは、

少なくとも自分の中にある「相手との会話をもう一切放棄したくなる思考ルート」というのは、このようになっている。


これ本当です。 いっつもこういうことばっか考えてしまっています。





だから
自分自身、もしも他人に対して何かを質問するのなら、
その質問が相手にとって失礼でないように、あらゆる可能性を考えた上で 質問しようと考えるはずです。



その質問は相手をうんざりさせないか?

その質問の答えは、物凄い近いところにないか? 相手が最近言及した中にあるのなら失礼だ。

相手が同じような質問ばかりされてそうならもう既にうんざりしてるだろうから避けるべきだ。


・・・そういうことを自分なら、あらゆる観点から予測した上で、失礼のないようなやり取りをしようとします。


(まぁだからこそ、自分はその上で誰かに質問したりする気力がなくなって、誰にも話しかけなくなるんだけど)




そこんところで、自分が配慮できるようなそのような可能性を全部投げ捨てて、

「なんでそんな「配慮のない質問」が出来るの????」 って思うようなやりとりを投げてくる人がいる。



するともう、
自分はその人を相手する義務がないような気がしてしまう。



ていうか実際、失礼な質問をしてくる人に出会ったら、みんなどうするのだ?


リアルでも、軽口を叩いてくる人間、相手を馬鹿にしようという態度で迫ってくる人間、相手を辱めてやろうという人間、
そういう人間がいたはずだ。



そういう人間が向こうからやってきたとき、どういう対応をとるのか?
その場で激高して、喧嘩を始めるだろうか?



自分は、その手のからかいに対して、何の反応もとりません。
(ネットでは取ってしまうこともあったけど)


自分は、無表情で無視して、その場から逃げます。


山野一 四丁目の夕日


やっぱりこれ。


これが自分のやり方なんです。




勿論それ以前に、本気で「口から声を発したくない」という感情も、マジである。


自分は家族と話す時も、できればノートに自分の言いたいこと全部書いてそれ見せたほうが効率がいいと思ってるし、

実際そうして解決してきたこともある。


マジで、声でしゃべるためのモチベと 紙にいいたいこと書くだけのモチベなら断然後者なので、

後者を採用したほうがよっぽど捗るということである


まぁそういうこと。



自分はあらゆる可能性を考えて、それゆえにコミュニケーションを放棄しているのに

あらゆる可能性を考えずに、デリカシー0で脳直で話しかけてくる人の気が知れない。


そしてその発言に、「少しでも考えたらその発言は失礼になるだろうに」という要素が含まれていたら、

もうその人は相手しなくていいんじゃないか?と思ってしまう。



だから、どっちみち自分なぞとはコミュニケーションなんて続くはずがないのです。


・・・
・・・
こういうのが、「コミュ障の本質」だと自分は思っているのだよ。


つまりどういうことか。

心がせまいから
性格が悪いからコミュ障だということです。


限界まで性格悪いから他人の心も自分の心に照らし合わせて考えるから
一切他人と話したくなくなるんです。


心が美しくて
ピュアで
優しくて
そんな人間がコミュ障になるわけがないんです。


古見さんが間違ってるのはその点。

(あと、古見さんの母親とか凄い明るくていい人だけど)
(あんな人からああいう人間が育つわけがない。 それもおかしい)
(古見さんの親は毒親であるべき)


もしも自分の脳内を漫画化するとしたら、
そら、物凄い文章量になるよ。




表面上は無表情で、相手の視線を合わさず、なにも考えてないようなふりをして、他人からなにを言われても無視一択。
そういう素振りなのだが。


(マジでリアルの自分は白痴にしか見えないと思うぞ)
(だが自分の脳内のうるささというのは凄まじいと思っている)



内面では、ありとあらゆることを考えた上で、「これはもう無視するしか無いな」とか考えたつもり、無視を決行しているのです。



そういう、頭の中の大量のモノローグを延々と描写する。


そしてその頭の中のモノローグの本質は「性格の悪さ」で凝り固まっている。


そういう漫画があったなら、それこそが最も正確にコミュ障の主人公を描けた漫画になると思うのだが、どうだろうか?



いっつも思うのだよ。


なんか最近、対面で口論して、 相手をボロクソに完全論破するような漫画、
そういう一枚イラストを描く人が増えているではないか?


(頭の中の脳内架空論戦バトルを、そのまま描いたような漫画)


(そんな漫画は保存してないので、パッと例は貼れないが・・・)

(これはちょっと違うが、まぁ「形式としては」こういう漫画だ)
(こんな感じの「特定の誰かをやり込めるような感じの漫画」で、
 この例とちがってユーモアの欠片もなにも含まれてなくて相手を叩くのだけが目的のような漫画)





そういうのを見てて自分が一番思うのは、
「実際リアルタイムで対面でこんな風に上手いこと相手を論破なんかできないよなぁ~」ということです。



そういうのは大抵、「頭の中で大量に渦巻いている感情はあっても」 
それをいざ、リアルタイムで口に出そうとしても上手くいかない、
というのが実情なのではないかと思う。




あとになってから、「ああ、あのときあのタイミングでああいう風に言い返してやったら、上手く決まったのになぁ~」っていうのを

無理やり後付で漫画に起こして、相手を「藁人形論法」で殴っているというのが、あの手の漫画の本質なのではないかと思う。

(つまり正確じゃないんだよ)


で、自分はどうなのかというと、

「頭の中では色々思ってるけど、なにも言い返さないでずーっと黙ってる」ということですね。

これこそが一番リアルなんじゃないかと。




つまりそういう漫画。


別に主人公をコミュ障に限らなくていい。


例えばそれはムスッとしたガンコ老人の描写でもいい。


まさに、傍から見てる分には何に対して怒っているのか、怒りの逆鱗ポイントが何なのか全くの謎で、
もはやボケ老人になってるんじゃないかと思われるような老人と、その老人の内面を完全に描写してみせてはどうか?





すると、人々の中で、「老人に対する見方」というのが変わるだろう。


全く理解不能だったガンコ老人の内面というものは、案外このようなものなのかもしれないと、分かるだろう。



例えばこれ、こうの史代さんの「さんさん録」という漫画が、これまた傑作であるという理由の1つである。



「さんさん録」で一番度肝を抜かれるのは、2巻のあとがきであろう。


こんな地味な、独り身になってしまったオッサンを主人公にした悲哀を描くなんて、
作者さんは「オジ専」なのじゃろか?と一瞬思う。 



だが、実際は真逆なのだ。


元々、こうの史代さん自身は「じじい」「ガンコなオッサン」という人種が苦手・嫌いな人であったらしいのだ。


その、大嫌いな人種というのをあえて主人公にしてみて、「そのような人間はどのように考えた上でこんなオッサンになるのだろう?」

という理解とシミュレートを極めた結果、あのような傑作が産まれたのだと思う。


・・・
つまり自分が言いたいことは、


・コミュ障を描いて、その内面の洪水のようなモノローグ全部描いてみせろとか、

・通常では全く感情移入出来ないタイプの人種を描いて、その内面を完全に提示することで、いままで理解できなかった人種に対する理解を深めさせてみせろとか、


そういうことである。




(それから比べれば、偽物のコミュ障単なる無口でビクっとするだけの中身のない可愛いだけのヒロインを描く手法など・・・)
(そんなことではコミュ障に対する理解などは全く深まらないし、むしろ遠ざかるだけではないかということ)


だってそんなのは、コミュ障の中に必ずあるはずの
 ・人間不信
 ・人間嫌い
 ・他人が信用できない

 ・他人と自分のマナーにものすごく敏感
 ・「これを相手に言ったら失礼に当たるだろう」の基準が物凄くシビア
 ・同時に他人から言われた言葉も限界まで悪く取る

 ・他人が何を考えているのかわからない → それ故に脳がショートするほど考えまくってしまう →故にフリーズする
 ・視線恐怖症 強迫観念 被害妄想 加害妄想 ネガティブ思考・・・
 ・・・
 ・・・とかとかとか、
そういう要素を、あの漫画は全く表現していないではないか!



(いや別に古見さんが可愛けりゃそれでいいんだろうけどさ)


(一方自分が「わたモテ」が大好きなのはこれだろうな)
もこっちの「性格の悪さ」を完全に出し切ってるから)
もこっちの野球観

(内面がボロクソに捻くれてるからコミュ障になるんだということが本当によくわかるし、実際その通りなのだろう)
(そしてその上でもこっちに感情移入できるし理解できから、好きなのだ)


・・・
そのようなモノを描くことが、フィクションの使命の1つではないかということ。


なんでそのようなことが使命になるのかというと、

これはもう、現実に対する潤滑油のようなものだろう。


例えばまさに
さんさん録を読めば、「無口なガンコジジイにも きっと内面がある 色々ある」という想像力が深まるだろう。

すると、漠然とした老人叩きというのも緩和されるだろう。 現実で横柄な老人を見たときの怒りも、多少弱まるだろう。



つまり世界をちょっとだけ優しくするフィクションである。


「最近の若者は何考えてるのか分からん! けしからん!」
「最近の老人のモラルは酷いもんだ! けしからん!」


このような対立を煽るだけでは、現実はどんどん世知辛くなっていくばかりではないのかと。

そんなことを思う。





何でこんな話になっているのか。


この文章はここで途切れている。

ここらで書くのをやめたのだろう。


で、今の自分がこの続きを書きたいかというと全く書きたくないのでここで終わりである。




だがこれをそのまま未編集で貼り付けることで何か生まれると勝手に思っている。



いつかそろそろ本当に、ブログを全面コメント禁止設定にするかもしれない。


そういうときに驚かないように。


自分は表面上はフレンドリーに応対とかしてるように見えるかもしれないけど
いつもいつも言ってるとおりに 本当に 悪いけど ブログにコメント要らないんですということを書いてる通りなんだよ。

本当に申し訳ないけど。

(それは前に書いてたことと矛盾すると思うだろうが)
(実際自分はそのとおりに 自分のブログなんて一人でも読んでくれる人がいれば十分だと思ってる
(それどころか最近は一人も読んでくれなくてもいいと思いはじめている

こんなクソブログなんか誰も読まなくなればいいなんてことを、半ば本気で思っている)


(つまり失礼さが突き抜けると謙虚さになり、)
(またその謙虚さが突き抜けると失礼さに戻ってくる、という感じだろうか)



そういうときに
自分が性格悪い奴だということが分かってれば驚かずに済むはずなんだよ。


「人間の内面で渦巻いてるモノローグなんて、所詮こんなもんだよ」

「日本人はお互いに親切そうに振る舞ってるかもしれないけど、実は頭のなかで喋ってる言葉をそのまま再生したら、
 お互いに実はこんなことになってるよ」



・・・
そういうのをそのまま表現してやろうと思う人間はいないのだろうか?



それを実現化したら、物凄い傑作ドラマになると思うんだが!!????
 (人間の日常における意識を根底から覆すとおもう)



筒井康隆の「家族八景」「七瀬ふたたび」みたいなの?
いやちょっと違う。  (そもそも家族八景のドラマなんか、自分の思ってる理想とは程遠い)


悟りとかサトラレとか、他人の中にダイブとか、マルコヴィッチの穴とか、
そういう突飛な設定なんかなくっていいんだよ!!


何事もない日常生活を淡々とやってるけど、
その登場人物の全員の脳内発話を観客にだけ素通しにする、というただそれだけ。
それを延々とずーっと続けるだけ。



それはドギつすぎて、
一瞬人間不信になるかもしれないけど、
逆に安心するんじゃなかろうか。

 (そもそもこっちはデフォルトで人間不信なんだから、みなこのステージに立てよと思っている



ああ、他人もこんなもんなんだ、と分かる感じ。






何も終わらないけど 完。


テキトー書きすぎたので追記

追記

まぁ今回の記事は自分でもテキトー書きすぎだと思った。



自分の言うように「コミュ障の人間=全て性格悪い」とするのは、流石に問題だったとは思う。
(だが一方、「宗教信じてる奴=馬鹿」に関しては、絶対に撤回しない)

その言い方だと、
吃音症の人とかまで性格悪いということになるので、流石に間違っている。

(トゥレットだの汚言症だの・・・色々ある)


だがどうだろうか。

そこまで考えるなら、
吃音症でも唖でもないのに、「筆談以外全くできない」という古見さんはどういうことになるのか。




また自分の考え方としては、

「コミュ障= コミュニケーションにかける努力を放棄しようと思う基準が物凄く低い」
ということだとも思っている。


ちょっとしたことで、

あ、もうこれ以上努力しなくていいや、

もうこんなやつ相手に必死に会話を続けようとしなくていいや、

もうこんな面倒なこと無理して伝えようとしなくていいや、


という風に「見切り」をつけてしまう。


その「基準の低さ」がコミュ障の本質じゃないかと思ってる。


その
「努力をすぐに放棄しようとしてしまう心理」の根源の部分に、

自分が言ったような 

・性格の悪さとか

・自分の声が凄く嫌いとか

 (これは自分も凄く分かる)
 (自分は自分の声が凄く嫌いなので)
 (ちょっとでも「えっ何?聞こえなかった」って言われたら、そこで会話を放棄してしまう)
 (もう一回大声で言い直すとか、精神的に無理だと思っている)

・上手く話せないとか
・その他色々な症候群

・・・
そういう要素が並んでいるのだと思う。





で、

他の誰かも言っているが

性格に問題もない
吃音症でもない

それなのに
筆談しかできない古見さんというのは、
なんかもうメンタルの病気だとしか思えない。

それはもはや「コミュ障」で済ましていい領域を越えていると思う。



じゃあ
そんなヒロインの困ってる姿を見て、

メンタルにすすめるだとかの対策を考えない主人公だとか古見さんの親だとかは、
それはそれで問題だということも見えてくる。



その上で、

ビクビクしてる古見さんかわいいとか

喋れない古見さんかわいいとか


んなことを言ってんのなら、


そんな愛し方というのは、
なんか、障害者を↓こういう風に愛でてるのと同じじゃないのか?
という気がする。


カタワ少女

玩具的な愛し方ですね、っと。

くそだせーですね、っと。


一方、「メンタルではどうにもならないコミュ障」というのもあるはずで、 


それが、自分のいうところの「性格の悪さに起因しているコミュ障」だと思う。


これはもう、「コミュニケーションにおける努力放棄」の根源が性格の悪さによっているだけなので、
もうメンタルでは直しようがない領域。


そういう意味では、
「直せないコミュ障=性格の悪さによるコミュ障」 ということくらいは、言って良いのではないかと思った。


まだまだ問題は山積みだがもういいや。



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[ 2017/04/13 12:17 ] 駄文 | TB(0) | CM(-)
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