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ニートが頑張るブログ TOP  >  駄文 >  自分の性格について考えて見えてきたこと

自分の性格について考えて見えてきたこと


自分がクズ過ぎてちょっとドン引きしました。


はい。前回の記事はひどかったですね。本当にひどい。
今年のワースト記事ノミネート。


(なんで自分があんな馬鹿なことを平気で書けるのかっていったら)(そらクズだからなんだけど)
(やっぱ自分のブログの読者なんかゼロだって本気で信じられてるから、そうなるんだろう)
(それが間違ってるんだろうけど、 精神的にその確認ができないから)


で、今回は自分の「性格」というモノについて考えて行こうと思う。

これは正直、面白い話が出来ると思う。 (勿論いつもどおりの駄文だけど)(駄文のわりには)


前回、超絶クソみたいなこと書いたと思うけど、
これのための前フリのようなもんである。


自分の性格について語るといっても、それは今までのような
「自分はこういう奴!」「自分はこういう奴だから!」とか連呼するだけの話では、留まらないつもりです。
こういう人間

そっから「先の話」が出来ると思う。


性格と、「その先」の話。


あと藻屑さんへ

メールに返事をしたら
Undelivered Mail Returned to Sender
って出ました。

で、よくみたら、
「行動で示していただくか24時間以内にご返信くださいませ」って書いてましたね。

自分が24時間以内にメーラー確認しない奴だったらどうするつもりだったんでしょうか?
実際そうなりましたけど。
筆不精の自分に無理なこと要求してもこうなります。 それで覚悟とか言われても無理です。

それと、その返事の内容は、こういう公開の場で書けるようなものではありません。
よって、捨て垢とかでなくまたメールをしてほしいです。
そうでないと返事ができません。
(この時点で「断り」ではないとわかるとおもうんですが)



 
(結局は支離滅裂な駄文なのであまり真面目に考えぬよう)
本気の電波文章でもある)


自分の性格は糞である。 クズである。
これはもう、このブログを見てたらわかると思う。


まぁ、性格がクズといっても、大きく分けても二種類はあるとは思う。

例えば人に危害を加えるタイプのアッパー系のクズと、
ずっとウジウジしてるだけのダウナー系のクズ、みたいな?

まぁそれで言えば一応「後者」ではあると思う。
 (いやでも前回のようなこと考えたら割りとアッパー系のクズではないか??)


で、そういう後ろ向きな性格をこじらせると人間は
ニートになったり色んなことができなくなって、人生どんどん悪い方向に転がっていく ような気がする。

そういうことについて考えていく。


自分の性格についてもうちょっとやる。

とにかく、落ち込みやすい。 これが基本。

この「落ち込みやすさ」について考えると、ちょっと凄まじい。


ちなみに、もはや自分はどんなに落ち込もうが
ツイッターで「落ち込みました」とかつぶやかないので、
自分が落ち込んでいるかどうかなんかは、もはや自分にしか見えなかったりするわけですが、
まぁ、いちいち落ち込んでいるぞと。


なんでこんなに落ち込みやすいのだろうか?
冷静に考えると頭がおかしいくらいに落ち込みやすい。


なんというか、こんなに落ち込みやすいのであれば、もう普通には生きていけないのではないかと思う。



例えば、人生に「良いこと」「悪いこと」が、大体半々くらい起きるとしよう。

「人生波乱万丈」
「人生山あり谷あり」
「人生楽ありゃ苦もあるさ」
「人間万事塞翁が馬」

「人生のプラスとマイナスはプラマイゼロなんだ」

・・・
そんなことを言う人は多い。


胡散臭いようにも思うが、
「主観的には正しい」とも言える。

つまりだ、自分の人生の平常時それを基準とする。 
平均、フラットをゼロと定めるならば、
ある意味この理屈は正しいのではなかろうか。


だが、仮にそんな風に 「良いこと」と「悪いこと」が半々に起きるくらいの「普通の人生」を送ったとしても
自分の脳みそで生きた場合、それでも不幸な人生だと思い、落ち込み続けていると思う。


つまりそういうことなのだ。



なんというか、

「1得る」ときに感じる幸福感と、
「1失う」ときに感じる不幸感が、自分の場合、まったく釣り合ってないのである。



本当は、1得るときの嬉しさと1失ったときの悲しさは、同じくらいであるべきだと思う。

そうすりゃ、1を得る良いことと、1を失う悪いことが、大体同じくらい起きる人生を送った場合、
気持ちはフラットで生きていけると思う。

でも自分の場合、
1得ても大して何も嬉しく感じず、
そのくせ、1を失ったときの不幸の量は10にも100にも匹敵すると思う。

つまり自分の場合、一日に良いことが「悪い事の9倍」くらいはないと、その日は不幸だと思うくらいの
勢いで落ち込みつづけているんじゃないかと、そんなことを思う。


自分が、
自分の落ち込みっぷりをある意味冷静に観察してると、そんなことになっているのだ。


「1得る、1失うってなんだよ」
「人生そんなデジタルじゃないだろ」って思うかもしれないけど、
まぁネット社会じゃある意味よくある話だ。



まぁなんでも良いよ。


ブログに好意的なコメントがつくことを1プラスとして、
ブログに攻撃的なコメントがつくことを1マイナスとしてもいい。


これでも、自分にとっては、マイナスのほうがショックがデカすぎる。

仮に攻撃的なコメントがつく確率が1%でもあったら、
(てか実際それくらいだろうけど)
自分はもう、自分のブログを確認するのが嫌になる。

(何回言ってるか分からない表現だけど、)
自分はもう、
ブログのコメント確認は一週間に一回くらいにまとめるようにしてるのとか、
pixivのコメントは完全に見ないのとか、
ツイッターの通知やリプは完全に見ないようになっちゃったのとか、

全部この心理が原因だということが、分かってきた。


プラスよりもマイナスがデカすぎるから、
もう何も確認したくなくなっているのだ。


もっと分かりやすいネット上のデジタルな損得でいうと、

・ツイッターでフォロワーさんが増える。
・pixivでフォロワーさんが増える。
・クランにメンバーが加入してくれる。


・・・まぁそういう、「獲得」である。



まーたクズアピールをすることになるけど、
正直、
実は、自分はそういうのが一人増えたくらいで、そこまで嬉しいとは感じないのですよ。


そりゃ、「最初の一人」は飛び上がるほど嬉しかったように思うけど、
それがものすごい勢いで「慣れ」ていくんです。
(でもこれは、ある意味 当たり前のことではないか?)



で、そうやって、「1獲得する」幸福にはすぐに慣れ、飽き、何も感じなくなるくせに、
逆に、

・ツイッターでフォロワーさんにリムられる。
・pixivで何故かフォロワーが減る。
・クランでメンバーが退会する。


みたいなことが起きると、
そのときの自分の落ち込みようというのは凄まじい。


これがもう、多分 通常の人間が感じたり想像したりしてるのとは、全然違うレベルでひどい。



普通の人は、誰かにリムられたりしても
「まぁそうか」「あーあ」くらいで済ますのかもしれないけど、
自分のこの辺のことに関する落ち込みようは、なんかもうどうかしてる。

落ち込みすぎて、「怒り」に転じるくらいである。



「なんでこんな、何も面白いこと呟いてない人にリムられなきゃならないんだよ!」

「なんでこんな、ホームがRTだけで埋まってるような人にリムられなきゃならないんだよ!」

「なんでこんな、うるさい人にリムられなきゃならないんだよ!」




「なんでこの人は自分のことフォローしておいて、自分がフォロバしないと、たった一日でリムって行くんだよ!」

「自分は通知をクリックしないから、新しいフォロワーが来たかどうか確認するのに、一日以上かかることだってあるでしょうが!」

"慌てる乞食は貰いが少ない"とはまさにこのことだよ!」

「・・・いや乞食じゃないわ この人、フォロワー 行ってるじゃん!」

「だったら、それこそ、そんな「フォロバ稼ぎ」みたいなこと、する必要のあるレベルの人じゃないでしょおおお???」

「なんであなたみたいなの有名人が、ニート相手にフォロバ乞食みたいなことしてくるんだよおおおおおお????」

「あんまりムカついたから、お望み通りフォローして監視してやる」


・・・
みたいなことを、いちいち個別の相手に関して考えてしまう。


pixivの場合も、更に腹が立つ。


pixivで人にリムられる場合って、ほとんどの場合、「絵を投稿した直後だと思う。 (こんなのは自分だけ?)

これは本当に奇妙な現象。

本来pixivは、「絵を投稿するための場所」であるはず。
pixivで他人をフォローするってことは、「その人の絵を見たくて」フォローするわけでしょ?


でも、実際は、「リムーブが発生するタイミング」のほとんどというのは、自分が絵を投稿した直後なんだよ!


なんで、絵を投稿する場所に絵を投稿したら、人に切られなきゃならないんだ!と。
ほんとムカつく! リムった奴を探しだして、リストアップしてやりたいくらい、腹が立つ。


・・・
でもこの現象は、考えてみりゃ想像がつく。

多分、ROM専の人は、人が絵を投稿した直後に投稿者をリムるということは、しないと思う。

リムってるのは、おそらく「絵を投稿する側のひと」だ。


pixivを開く。

フォローの新着に気づく。

見に行く。

相手のひとが「相互フォロー表示」になってないことを確認する。

自分がフォロバされなかったことを確認する。

この私をフォロバしてないくせに絵を投稿しやがって!!
許さん!


そんで相手をリムる!


・・・てことをしてるんだよ、多分。 そういう人は。




「他人が絵を投稿した直後を狙ってリムってくる」という、
「他人からやる気を失せさせるようなリムーブをしてくる人間」というのは、
こういう思考で動いているタイプの、絵を描く側の人間である ということが推理できる。

・・・
だから余計に腹が立つんです!

そんな奴を見つけ出してやりたいと思う。


・・・まぁそんな調子なんです。


こんなことばっか考えているので、
自分は、

1獲得するときの幸福感と
1失ったときの怒り、悲しみの量が、全く釣り合わないのですね。


これだけだと、単に
「自分はこういうクズです」って説明してるだけの文章。


で、ここまでが自分の思考回路の説明。


嫌なことがあったら一日中そのことばっか考えて手が付かない。

良いことの思い出はすぐに忘れるけど、
嫌なことの思い出は、一生リフレインして、強固な思い出になっていく。

人生に、嫌なことしか蓄積していかない。




こんな脳みその構造、思考回路を持っている自分は、
どう考えても人生を幸福に生きられない。

仮に良いことと悪いことが半々に送る、ニュートラルくらいの人生ですら、不平不満だらけで生きることになる。
怒りの炎に燃えながら生きることになる。


自分が幸福になるためには、良いことが9割くらいしか起きない人生に持っていくしかないが、
こんな自分にそんなうまい話がある筈がない



つまり自分の人生は、脳レベルで不幸になることが約束されているのではないか?


・・・
みたいなことを考えてしまう。

地獄は脳の中にある。
(虐殺器官)


で、次にこれの解決方法について考えていこう。
考え方の問題?

自分の、何かを失ったときに烈火のように怒ったり、悲しむ性格を、なんとかしてやめろって問題?
「足ることを知れ」みたいな、考え?


・・・自分は、実はそういうことじゃないんじゃないかと思ってる。


自分がこういう、自分の性格について分析し、さらに「性格のその先」のことを考えようとしたとき、
行き着くのは、そういう「宗教」みたいな発想ではありません。



「人間の内面的進化」について、考えてしまうんです。


「こういう性格には、何か意味や成り立ちがあるはずだ」という考え方です。


ちなみに、「内面的進化」ということについて、
事前にちょっと補足とかしておきたかったんだけど、

あんま調べられなかった。


「パラサイト・イヴ1」にこういうセリフがあったと思うんだけどなぁ~
これの補足のためだけに実況動画を全部見返そうとしてたけど、ちょっと時間が足りない。



例えば、音楽を聞いて
鳥肌が立つくらい感動できる脳を持った人間と、
音楽で鳥肌が立つとか意味が分からないって人間
に分かれるらしいです。 (自分は立つ派です)


多分これは、生まれ持った差 先天的な差だろう。
(訓練で、音楽で鳥肌を自力で立てるようにはできないと思うし)


つまりそういう、
感動の構造脳の報酬系の、かなり重要そうな領域で、
遺伝によってこれほどの差というのが、実は見えない所で別れてきているわけです。


いっぱい感動できる感動屋の人間と、
感受性のうっすい人間が、脳レベルで、こっそり別れている。 見えない内に。

(ちょっと怖くない、これ?)
(アマゾンのレビューで★1の雑なレビューとかつけてる人種に無感動種が多いってこと、無いですかね?)
(誰かそういう研究をしろよ)


背の高い人間、
背の低い人間、
デブ、ガリ、
ブサイク、美人、
運動神経の良い人、悪い人、

・・・
そういう見えやすい外面の形質、

そういうので起きる淘汰、性淘汰、自然淘汰はわかりやすいし、
それで人間が外面的に変化していくのは分かりやすかろう。



その一方で、
人間の内面、
それも「性格」とかのまだ見えやすい部分じゃない所で、
実は相当の変化が起きてきているのかもしれない。


クオリアとか言ってられないレベルで
物の感じ方が全く違う人種が、見えないところで、こっそり別れているかもしれない。


でも、それをキチンと調べることすらできない!




マジで、人間はこのことについて、テキトーにしか研究できないのだと思う。


人間の外面的進化についてなら、類人猿とかの化石を発掘したりして、
時代ごとに研究を積み重ねていけばいいだろう。


でも、人間の内面における進化とか淘汰、

どういう内面の形質がどんな風に分布しているか
いつどういう風に分かれたか、
どのくらいの時にこういう性質が固まってきたか
・・・
そういうのは、化石には出るわけがないので、まじで分からない分野だと思う。


研究しようがないジャンル。

でも滅茶苦茶重要そうですよね、みたいな話。

・・・
・・・
こういうことについて漠然と考えるのが、
自分の
「人間の内面的進化」の認識。


で、戻る。
実際どうなのだろう。

自分の「こういう性格」はどういうことなのか 考えていく。

表現を変えると、
「痛みに全く慣れない 慣れることが出来ない性格」みたいな言い方ができると思う。

ものすごい「痛がり屋」の性格である。

嬉しいことには速攻で慣れるが、
嫌なことは絶対に慣れない。



そんな性格だと思われる。


ちなみに、
「痛がり屋」というキーワードで自分が行き着くのは、
「寄生獣」「MGR」である。

寄生獣



MGRの無線で、ものすごい興味深い下りがある。
(これも、人間の内面的進化に関わる話だと思う)


人間ほど「痛がり」の生物は他にいないらしい。

野生の動物が、ちょっと怪我をしたくらいで行動不能になるほど痛がっていたら、そのまま生死に関わるからである。

痛いときこそ、全力振り絞って逃げないといけないのに、
人間という生き物は、ちょっと痛いと、その場でのたうち回って叫び声を上げるほど、無駄に痛がりである。


こんなに「痛がり」なのは、不合理である? おかしい? 役に立たない?


でもこれは、人間の長い進化の歴史の中で、獲得されてきた性質らしいのだ。
 (だけどこういうのも、証拠を探して研究できる事柄ではないよなぁ)



人間は、野生の動物と違って、「集団で狩り」をしてきた。
この歴史があまりに長すぎた。


その歴史の中で、
多少の怪我をしても痛みを介さず、英雄的に狩りを続けるような個体は、 案外そのまま死んでしまったのだろう。

それよりか、
ちょっとでも怪我をしたらオーバーに痛がり、叫び声を上げ、仲間に助けをすぐに求めるような「痛がり」の個体の方が、
人間の群れの中では、生き延びやすかったのだろう。




・・・そんなことを続けてきたせいで、
今の人間というのは生物の中でも異常に「痛がりな生き物」として 完成してしまったらしいのだ。

mgr ドクトル
mgr ドクトル
mgr ドクトル

・・・みたいな小話がある。


こういう、人間の内面的進化みたいな話を、
「性格」にも適用できないだろうか?


自分の、
1獲得しても大して嬉しく思わず、
そのくせ
1失ったとき、そのことについて延々とクヨクヨクヨクヨ悩み続ける性格
というのは、何の役に立っているのか?

この、一見不幸になるしかないような、「心の痛がり」な性格は、何の意味があるのか?
何でこんなのが成立しているのか?


人間の内面的進化、
このような形質が、人間の遺伝子プールの中で、「案外」生き残れつづけ、
いやそれどころか、人知れず「強化されつづけてきた」としたら、実はそこには意味があるんじゃないか?

その意味とは?



・・・そういうことを考えていくと見えてくる
一つの答えは、

「強欲」である。


自分のこの「心の痛がり」という性格を、真剣に分析していった結果わかるのは、実はこれである。


これは、「強欲者の遺伝子」なのではないか?



1つ、手に入れても決して満足したりしない。 
満足しないというか、獲得することにどんどん慣れていって、何も感じなくなる。

そのくせ、
1つ、失ったときは、烈火のごとく怒る、失ったことを考え続ける、分析し続ける、後悔し続ける。

失うことにあまりに敏感になる。
失うことに絶対に慣れない。


・・・
・・・これはもう、「強欲者」の内面的進化の結果なんじゃなかろうか?



つまり、人間社会の中で、このような「強欲な性質を持った人間」が、生き残りやすかった。
異常なまでに、失うことに敏感な人種が、掛け合わさり続けてきた。

その結果、自分は、このような性格になってるんじゃないかと、そういうことが見えてきたのだ。


こんな風に、自分の「イジイジしている後ろ向きな性格」というのが

・繊細
・センシティブ
・傷つきやすい
・ガラスのハート

というよりかは、

実は「強欲さ」に根ざしているんではないか? ということを発見したとき、 
なんかちょっと、吹っ切れましたね。
(やっぱどっちかっていうと攻撃性だよなと)


これは、どんな哲学や宗教よりも、いい感じに吹っ切れると思う。
気が楽になるよ。



これはすごい発見なんじゃないか???



(別に、強欲のままで良い、って開き直るための話ではないんだよ)
(何か失ったときめっちゃ凹んだとしても 「ああ、これは自分の中の強欲さが出てるんだな」って分かれば、気が楽)
(「足ることを知れ」みたいに、窮屈なことを自分に律しようとするより良いのではないか?)


じゃあ、自分のその「実は強欲」な性格がどう具体的に役にたっているのか、考えてみる。


一つは、「自分が得てきた物、やったことに絶対に満足しない」ってのがあると思う。

自分が獲得してきたモノに絶対に満足できないので、
例えば、モノを作り続けるとかいうことを絶対にやめない。


ネットを見てると思うんだけど、
なんか、1個なんか作ったらそこで満足するのか、「それ以上何もしなくなる人」って、案外いるんです。


「モデリングやってみるかー」
「やったー完成したよー」


オワリ

ソレ以降音沙汰無し


こういう人って、結構いるんです。


多分、こういう人は一個作ったらそこで満足しちゃう、
「自分がなんか一個作った」という事実で満足してしまう、 ある意味「謙虚な人」なんだと思う。



でも自分の場合、
「これだけ作ったら満足」みたいなのは、多分、絶対、無い。
 (カマキリ作ったら死んで良いとか言ってたけど、あれ嘘でしたわ)



絶対に足りない

まだあるはず・・・

まだなにかあるはず・・・

まだなにか・・・ 
鷲巣


何かを作っても、その直後に、また何か作ることしか考えられない。
絶対に満足感を味わえないので、そうなっちゃう。


・・・多分そういう性格なんだと思う。


つまり強欲者の性格には、一応そういうメリットがあるんじゃないかと思った。
だってほんとに、自分は何作っても満足できないから。 (ショボいだけかも知れん)

強欲のマモン
というわけで、これからは自分は「強欲のマモン」を師匠にして
強欲さの良いところを見て生きていこうとぞ思う。
マモンは知識欲もすごいからね いい意味で)




・・・
なんか都合の良いことばっか書きすぎた気がする。




ここで、「性格」についての、まったく別の話題。 
「記事分けろ」ってレベルで、別の話。


「性格」と「淘汰論」を組み合わせて考えることについて。



よく、「ダーウィン賞」みたいなことが話題になる。


馬鹿な人が、馬鹿な事故を起こして、死んだりする。

バカな人間が子供を残さず死んで、人類の遺伝子がいい感じに剪定された!

良かった良かった、褒美を授けよう、 という皮肉である。



こういう考え方というのは、「ネタ抜き」で考えた場合、どれくらい正しいんだろうか?

みんな、ダーウィン賞によって人類が「賢い方向に進化できてる」と、本気で信じてる???


自分は、実は「かなり疑わしい」と思っている。



性格と違って、知能なんてのはほとんど教育によるモノだと思う。

勿論、
異常なレベルの天才なんかになってくると、先天的に与えられた才能だとは思うけど、
一般人レベルの知能教養を得られてるかどうかなんてのは、本当に全部「生後の教育の問題」だと思う。


だから、知的障害者とかでないレベルの
生後に固まった「ある程度のバカ」「なんかやらかすDQN」というのは、

教育、環境、後天的な要素で出来上がったバカだということがわかると思う。


(まぁつまり自分は、あるレベルの天才は先天的だが)
(あるレベルのバカというのは環境で出来るもんだと思っているわけ)
(ダーウィン賞は、障害者レベルのバカは採用しないでしょ?)



・・・
そうやって考えた場合、

バカが阿呆な事故を起こして死ぬ、

それで人間が遺伝子レベルで淘汰が起きて賢くなる、なんてのは、「大嘘」な気がしてくる。


もしも人間が優生学的に、障害者をブッコロしていって、
それでサヴァン的な人が消滅したなら、 それはそれで人間の知性に影響はあるだろう。

でも逆に、表層上のバカな人をブッコロしていっても、
それはほとんど環境によって出来た一般バカなので、それでは人間の知性に影響はないと思われるワケ。



・・・となると、

もしも優生学的に人間の知性を「間引き」によって向上させたいのなら、
もうちっと別のやり方をすべきな気がする。


「遺伝要因による知性の優劣」をなんとかして見つけ出して殺さないといけない、と。

(それは滅茶苦茶難しいはず)

IQを測ったって、無駄
(一般人レベルのちょっとしたIQの高い低いなんて、ほとんど生後の教育によるものだろう)

(もしそれで間引きをやったとしたら、それは単に「教育水準で間引きをしてる」ってことになる)
 (貧乏人になる遺伝要因なんてあるのか?)
  (・・・いやありそうで怖いが)



つまり、実はそんなことをやろうとしても効果が薄いし、なんか別の遺伝要因を間引きしてることになりかねない。


そんなことをやるくらいなら、もっとハッキリ見えている形質で間引きをしたほうがマシなくらいだ。

たとえばさっき言ったような感動の形質。 

音楽で鳥肌が立つくらい感動できる人間だけ残し、
音楽を聞いても鳥肌を立てられない人間を殺す、

みたいな淘汰をやりまくったら、どうだろうか?

そうしたら、
この世にはものすごい「感動屋」が増えることになる。


人間に「痛がり屋」しかいなくなったように、
感動しまくりの人間しかいなくなった世界。


これは、言ってみれば
「鳥バードは何を食べても美味いという」の感情版のようなことだ。


実はこれは物凄く幸福な世界なんじゃないかと思われる。
これを実現するには長い時間をかけて大虐殺をしないといけないけど。

(というわけで、これは一つのラスボスの思考回路のアイディアになりますね)
多幸感で満ちた世界を作るために、音楽で鳥肌を立てることが出来る人間以外を虐殺していくラスボス
「自作ラスボス集」みたいな、リスト記事も作りたいくらいだ)


勿論、この流れはギャグで言ってるけど、
つまり、優生学ってのはそういうことだ。


で、この話が、
「性格」にも適用できる気がする。



前半の話で、性格と内面的進化みたいな話したけど、
ぶっちゃけ何の根拠もないし、半分妄想のような理論ではあるのだ。


やっぱり
人間の内面進化の研究なんて、手がかりが全然ないからね。


「人間はなぜこんなに痛がりなのか?」
そういうことでググろうとしたって、何も出てこない。

自分のあの話の根拠は、寄生獣と、MGRですよ。
基本ゲームや漫画からの連想なのです。



で、真面目に考えると、やはり、 
「性格」というのも 結局多くは、「環境」要因によるものだと考えられる。

(まぁ、環境5割、遺伝5割、ということらしいが)



実際、自分自身の性格について考えてみたって、そんな気がするよ。


自分は、高校1年まで、こんなに暗い奴ではなかったよ。

全然こんな性格ではなかった。

(てか、高校一年の頃までは、クラスの人気者だったと思うんですけど???)
 (気持ちの悪い話をするな)


それが、高校2年あたりから、どんどんおかしくなって、
そんで、今の性格に至るのだから、

やっぱ自分の性格について考えた場合、

これは結局全部、「家族」と「学校」、つまり「環境」のせいだったと言って間違いないと思う。

自分で、そう思う。

自分では、そう思う。

自分の性格がこんなんになったのは、環境のせい。

(スピードワゴンに蹴られそうなこと言ってますか?)


そうやって考えた場合、

「クズな性格な奴は死ぬべき」
「クズな性格な奴が淘汰されれば、人間の遺伝子はもっとよくなる」

・・・というような淘汰論も、案外胡散臭いということが見えてくる。


「環境で出来上がった」クズ人間を、いちいち殺していっても
遺伝子上のメリットにはならない、と。


こんな構図を考えよう。



性格ニュートラルな赤ん坊、「白紙のような人間」が生まれつづけているとする。

その子供が、環境によって性格が変わっていくとする。
人間をクズな性格にする要因は、半分以上環境であったと。

そのクズ人間をいちいち仮に、全員殺し続けていったとしても、
そうすることで世界全体をよくしようとしても、

人間をクズにしている環境そのものを解決しない限り、
実は何も根本的な進展はない。



それはただ、生まれてきた人間がネジ曲がり、殺され続けているだけの世界である。

地獄と変わらん。


・・・
「そういう構図」ね。


で、ニートに関しても同じようなことが言えると思う。

人間がニートになるのは何の要因だろうか?


遺伝子?

環境?

偶然?


自分的には、やはり遺伝的要素は薄いと思われる。
(ニート遺伝子なんてあるんだろうか?)


環境や状況で、そういう人間が生まれているだけだと思う。


家庭、学校、試験、面接、数々の登竜門、
・・・
そういう数多くの要素のどれかで心が折れたりすると、そういう人間のコースに行っちゃうだけだと思う。

心が無気力モードに入る。 そういう風に出来ている。


今の世界には、人間の心を折る要素が多いだけ、と言える。



それでもなお

「その程度の逆境で心が折れるのは、生まれ持った心が弱い人間なんだから、先天的な問題だ!」

「ニートを全員殺していけば、人間の心は強くなる!」

みたいなことを本気で考えている人はどれくらいいるだろうか?


いや、
そこまでのことは考えてないつもりの人だって、

「クズが死ぬのは自己責任」

「クズが死ぬのは淘汰」

「弱い奴が死ぬのは当然」

「弱い奴が死ぬのは自然の摂理」


みたいなことは、なんとなく考えてるんではなかろうか?

でも、そう考えるってことは、行き着く果てはそういうことなんだよ。




「環境要因で変化する性格や生き方を、あとから殺すことで淘汰しようとしても、実は人間の遺伝子に何の向上も無い」

それは単に 大勢の人間が生まれ、環境でネジ曲がり、苦しみ、殺され、死んでいってる「だけ」の構図である。

単なる悲劇的な舞台ってことがわかるだけ。 
世界とは悲劇なのか。


「なんとなくの淘汰論」が、実はこの世を更に地獄にしている、と。

そういうことが、ここまで考えたら、キチンと見えてくると思う。



つまり、自己責任とか淘汰とか自然の摂理とか、全部嘘だったワケ。


直すべきは

人間の心を折ったり
性格をクズにしたり
人間を必要以上に強欲にしたり
内向的にしている社会そのものの性質ではないか?ということが、

ここまで考えると、ハッキリしてくる。


・・・
以上。

自分が「性格」ということについて考えると、こういう話になる。



じゃあ具体的にはどうすんの?ってなると、

この次の段階としては、

「面接」とかいうシステムが如何に人間、特に日本人の気質に合ってないか」みたいな話をしたら、まぁつながるとは思う。

でもその話はいつするんだか分からない。


あとは、
競争を強いる社会構造というのは社会構造自体のために自動的に成立してしまっただけのモノであって、
人間の幸福と全然関係の無いところにある、
みたいな話。

これは「勉強」について語ったときに、ほとんどしたと思う。


更にいうと、
淘汰なんて相当慎重にやらなきゃ何が起こるかわからんからね。

人間のどういう部分が何に作用してるか、わかったもんじゃない。


自分の好きな小話。


ある集落の中に、ものすごい早死をする難病を抱えたグループがいる。


「そんな難病抱えた遺伝子なんて要らんだろう」
「そんな難病をもったグループなんて、さっさと死に絶えればいいいだろう」 と、思われるが、


実は調べてみると、その人達はマラリアに対してものすごい耐性を持ってたりする。

つまり、そういう人たちがいることが、「集落が突然のマラリアで完全に絶滅してしまうことを防ぐ」、安全装置になっている、と。
そういうことが見えてくる。



もう一つの話。


フィジーにはものすごいデブがいる。

デブりやすい遺伝子なのだという。

デブりやすい遺伝子の奴なんかいらねーよ、ロクでもねーよと思われるが、
実は、そういう人たちは物凄く「飢餓」に強かったりする。
(「デブ」というのは、考えようによっては食べたエネルギーを効率よく貯め込める人、とも言えるから)


この肥満遺伝子もまた、
フィジーのような島国の環境で、突然の干ばつ、飢饉で絶滅しないためのセーフティだったということがわかる、と。


ゆうなま

(自分はよく太った人間を叩くようなことを書いたりするけど、こういうことは考えたりはするのだ)


・・・こういう小話を知っていくと、
やはりまた安易な淘汰論にはなってこないと思う。

何が作用して何が役立っていくかわからないからである。


(映画CUBEもそんなことを言いたいんじゃなかろうか?なんてことを思ったりする)
(多分気のせい)


てかそもそも自分が最近思っているのが、
いつまでそんな風に「淘汰」「淘汰」言ってるんだ、という感覚なんです。




人間が生まれてから何年経つ?

一億年くらい経ってない?



人間が大して進化しなくなってどれくらいになる?

一万年くらい前から全然人間は変わってないんでしょ?



もういい加減、すぐにはなにも変わらんだろうに。


それなのに、
未だに、
短い世代間で淘汰や進化が起きるような錯覚を持ってる人が 多すぎるんじゃないだろうか?

淘汰論よりも、そういう「圧」によって個人がどれだけ苦しんでるか考えてみないのか?と思う。



「クズは死ね」とか、

「バカは死ね」とか、

「無能は死ね」とか、

「弱いやつは死ね」とか、

「それが淘汰だ」とか、

「それが自然の摂理だ」とか、

「この世は弱肉強食だ」とか、

「適者生存だ」とか、

「この世は所詮奪い合いだ」とか、




「変化できるものだけが、生き残る」「深いなぁ~」とか、
(↑このコーヒーのCM、全然深くないと思う。 見るたびに毎回腹立つ)
 (多分ダーウィンのセリフなんだろうけど)
 (ダーウィンそんなこと言ってないらしいぞ


・・・そういう言葉、
そういう、「世界を厳しく捉えようとする言葉」は、実は大間違いなんじゃないかと
実は全然カッコよくないんじゃないかと、自分は言いたいのです。


ここまでの文章読んできたなら、分かってもらえると思う。


人間が生まれて一億年、

人間がほとんど変化しなくなって一万年、

それなのに、

未だになにか弱い人間が死んだら
人間の遺伝子が浄化されるような気がしたり、
人間全体が賢く強くなれるような気がしてたら、それは錯覚。 勘違い。

むしろいつまでそんなことをやってんだ!?という話。



いつまでもそんなふうな
「見せかけの剪定」
「実は効果の薄い剪定」を馬鹿みたいに続けている方が無駄だってことが、なんか、見えてくると思う。


そういうのは意味のないイジメの風習みたいなモンであって、
全然世界を良くしたりはしないということが、見えてくると思う。


だいたい、ダーウィン自体がものすごいコミュ障だったんだよね。
(普通じゃ生き残れないレベルの人嫌い)
(単に金持ちの生まれだったから結果的に生き残れただけではないか)



・・・というような感じ。

自分が「性格」という物について考えていて、行き着くのがこういう話。


大したオチもない。

大した結論もない。



見えてきたことというのは、
「今どき人間に淘汰論を当てはめようという考え、それそのものがクソダサい」
ということ。 いつまでやってんだソレ、と。

こういう価値観が広まればいいなぁ~と、

そんな漠然とした思いですね。



・・・
でもこんなことを考えていても、
やっぱり自分の姉が婚活とかしているのとか見ると
物凄くおぞましいものを感じてしまうし、

人類のために今すぐ死んでくれ!
人類のために子を残さずに消滅してくれ!
って思いますから、

人間って勝手なモノです。

(これがオチ)

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[ 2018/06/01 12:49 ] 駄文 | TB(0) | CM(-)
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