なーんか、 結局ものすっごい本格的な自己嫌悪だったらしく、2週間くらい、ここを見たくもなくなってたらしい。
そういうのがどういうタイミングでマシになるかというと、
別次元でなんかいいことが起こるのを待つしかないのですよね。
こないだ、
外国人のある人から、 ものすごい勝手に勘違いされてブロックされたりしていました。
なんだアイツは!?とおもって、 それでもまたこっちが凹んでいました。
(
100%向こうが悪いと思ってるし自分は間違ってないと確信しているのですが)
(
でも、それでも、一方的に誤解されて嫌われるというのは、凹みます)
とか思っていたのですが、また別の外国人さんの仲裁で、 その人が勘違いで怒っていたことの誤解が解けたみたいでしたとさ。
ああ良かったよかったと。
・・・ こういう、「別次元で良いこと」 が不意に起こったあととかじゃないと、もうこのブログを見にこれないくらい、
変な気分になっているようですね。 良いことがないと編集できないブログ。
やっぱり全て、天に唾吐く気分でブログやってるのですよね。
それくらい、なんか書くと、自分自身の自尊心が削れてることになってるらしい。
何かを批判するとその心が自分自身に突き刺さってくる。
なんでこんなことになってんだか。
(まぁこれについても書けるけど)
(そればっかりだけど)
(どんなことでも 何についても30分語れると思ってる)
しょうがないので、 やっぱりこれ。
ブログを書く気が無いのに書く気があるとき(矛盾)は、これしかない。
ブログをちゃんと書かずにブログを書く行為として、こういう
一行で最近考えていることを書いてしまうというのがあるわけだ。
気になったらリクエストを出してくれたら良い。
最近考えていることリスト。
◆一行詩 ・ 架空目次本 みたいなこと最近考えていることリスト。
だが本当に
「展開」する必要があるのだろうか??
そもそも自分がやっている「こういう行為」は、
新ジャンル「一行詩」みたいなもんだと考えたらどうだろうか?
「超・ショートショート」みたいなこと考えてたけど、更にその先である。
もう、
「タイトルの羅列だけで残りを想像してもらう」、それで十分なんだ、 というジャンル。
もっと言うなら、
「目次感」 「索引感」 みたいな?
架空の本 の、 架空の小説の、 架空の短編集の 架空の目次だけ を集めたような 本 というのがあったら、
それは一つの新ジャンルになるんじゃないかと思いました。
誰か、そういう本を作ってみてはどうだろうか?
もちろん、その本は、 目次、その各タイトル
だけで、 想像させる余地があり、面白い羅列になってないといけないわけですが。
究極のショートショートの行き着くはてがそれです。
もはやプロットの羅列を超えたところ。
それは、タイトルの並びだけで人をワクワクさせたり想像させないといけないのです。別にまだこれ自体のアイディアはないんだけど、 これを集めていかないといけないんだけど、例えばこういうのだ。
・「風邪屋」・「」
みたいな調子。
好きな小説家の短編集を買ってきたと思いねぇ、 (まぁ漫画家の短編集でもいいわけです)
まずは目次を見るわけです。
そこに、
「風邪屋」って書いてある、と。
何が書いてあるか、割となんか大体想像がつく気がしませんか?
で、ちょっとワクワクしませんか?
まぁ、完璧な仮病に使えるような風邪の症状自体が売られるようになった、というとこまでは想像できますよね。
そこから、いろんなことが展開していくのが、見えてきます。
これはもう、必然的に見えてきてしまう。
まぁそういうことです。
そのレベルの言葉になってるモノ。
人間の、「感想展開能力」に期待した構造。
人間の感想展開能力をできるだけ適切に刺激できるような、 そのようなセンスの塊のようなタイトルを、選りすぐって集めていく、という
それが一行詩、 そういう一行詩の、詩集。
そういうコンセプトの、本 、ということですね。
で、うるせーですね。 ほとんど書いてしまっていますね。
まさに、 「一行詩」「架空目次本」 という
一行の情報には、 これだけのことが詰められてるつもりだし、
自分はそれくらいのことを書こうと思って、羅列しているわけです。
◆「君はすごくないからね理論」は正しいのか正しくないのか(不当な低評価に対する不当な低評価である可能性)
(目が利く人間のほうが能力が高い可能性があるとさえ言える)
傲慢さを助長するシステムが根底にあることが見えてきた あらゆるSNSの構造
ではその逆とは?
傲慢と謙虚
◆つきつめると「傲慢」とは「快適さ」が原因にあると見えてきた では「謙虚」は何から産まれてくるのか?
◆欲しくなくなるについて得ようと思ったら得られる程度になったものは、欲しくなくなる
得られるようになったモノはどうでも良くなる
有名人著名人が失言をするという行為も、根っこは「ここ」にあるのではないか。
彼らはもはや「好感度」に飢えていない。
「尊敬」、 それ自体への執着が
もはやなくなるからこそ、人はわがままになり、言いたいことをいいたくなってくるのではないか。
ほっといても十分尊敬が得られるようになったとき、人は行儀を考えなくなる。
とかなんとか。
自分自身、 どんどんいろんなことがテキトーになっていくように思うけど、 なんでテキトーになっていくかが、見えてきた。
だって、体裁を繕う必要がない体制を、作り上げてしまったからね。
◆誰も継承できなかったFFTのクリスタルとは
◆水が腐るのが分からない論
◆「議論」って、「囲碁」みたいだなぁと 思うことって 、ないですか?? という話(相手を攻めようと取り囲もうとしてるとき、案外自分の側の足場がとても弱くなってることがある)
(そこに突っ込まれてるように見えるけどそこは特に反論しないという場合、案外それは戦略的だったりする場合がある)
とかとか
議論と囲碁はどこか似ている
◆「これは進化しないのだろうか?」 とすぐに考えてしまう思考について
◆人間が想像出来る程度の宇宙は全て存在する
◆モノは集めだすと価値が出る むしろ出て「しまう」
◆自殺秘書問題あ、これも一行詩レベルですね。
これめっちゃ書きたい。
秘書問題と
自殺転生を組み合わせた話。
クレオパトラの話です。
◆趣味のハードルは無限に高まり続ける
落語はオートマトン (自動書記)
◆奉仕と搾取は紙一重
◆音楽の対位法について延々と語るむしろその先
「情報を食ってるような音楽」というのを集めていきたい
それも いい意味で
◆木こりのジレンマについて
◆テクノの良さがわからなくなるときがある件について
なにこれ
◆「愚かさ」によって十分説明されることに、「悪意」を見出してはいけない について
でも実は 「愚かさ」でもないよな
「テキトーさ」で説明できることが多いと思う。
◆出来る人と出来ない人の違いとは(これずっと喋りたい)
自分も出来ない側のつもりなので
◆「造形力」と「技術力」についてこれもずっとしたいと思ってる話。
自分は 技術力はそんなになくてもいいから造形力さえあれば良いと思ってる。
でも案外、世の中にはその逆、「造形力皆無なのに技術力だけはある人」ってのが結構いる。
そんなのになるくらいだったら逆のほうがよっぽどいいと思ってる。
で、なぜ無いのか? という話。 バランス感覚。
造形力がない人々について
引き上げる力
◆創造性とサザエボンについてクリエイティビティについて語るなんて大層な話のように思えるけど、
実はそんな大した話じゃないです。
でも今、あえて「サザエボン」について考えると、なかなか興味深いです。
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