最近、
特に良く考えている事にこういうのがある。
(こういう書き出しも多いがそれ以外に何がある?)
「自分は何かを蓄積できているか?」という疑問。
それは本当に獲得なのか?
それは本当に前進なのか?
それは本当に進歩なのか?実は逆なんじゃないか。
「"ある程度以下"の前進は後退に等しいんじゃないか」という考え。
それについての話。
相変わらず
糞文章安定なので誰も読むべきではないです。
本当はこのことをニート3周年として4月の頭に書きたかったんだけど
あの頃は割と精神的に安定していたらしい。
(いや、傍から見たらやっぱり安定してないのかも知れないけど)
(自分の中でシャダッてる間はそれはそれで安定だったのかも)
で、最近はまたいい感じで頭が狂いかけてきたので
こう言う糞文章を書きますよと。
◆右肩上がりの罠たとえ人間には不可知で、見えなくて、数値化出来ないにせよ、
人生にも
「経験値」というモノはあると思っている。
そして、それは
常に右肩上がりで増え続けている。
どんな人間であっても。
経験値が減るということはない。どんな人間であっても。
このような、
「数値上は常に右肩上がりで絶対に減ることがないモノ」について考え出すと、
これは別に、人生上に
経験値なんてモノを
仮定しなくても
「実際によくある現象だな」と気付く。
本当にこういう数字はよくあるのだ。
◆pixivで例えてみるこっからかなりやらしい話になるけど、気にしない。
自分にとってこの概念を考えるきっかけになったし
かなり分かりやすくなると思う。
例えば
「pixivの被ブクマさん」でこの概念を例えてみる。
(被ブクマさん=自分をブクマしてくれている人)
あれも、基本的に
「右肩上がりで減ることのない数字」である。
だけど思うのだ。
あれが増え続けても、実はそれに比例して
閲覧・ブクマ・点数などが増えるわけではないのだ。
もちろんそれの増加に応じて伸びる人もいるだろう。
いや、むしろ「その違い」こそが大事なのだ。
基本的に全ての人が被ブクマさんが右肩上がりで増え続けている。
それでも、伸びる人と伸びない人がいる。
この「差」について考えることこそが重要。
これは何故か。
「実際の増えている数字」以上に、
「目には見えない離れている数字」があるからだ。
もうpixivを見ていない人、
もう点数入れたりブクマしたりしなくなった人、
もう自分への興味を失った人、
むしろ自分のことが嫌いになった人・・・等々そういった人達が、常に一定の率で発生している場なのだ。
そういう場所で、右肩上がりの数字に慢心していると、
それは別に進歩や安定には繋がっていない。
ある程度の増加速度を維持出来ていなければ、
むしろ実質の被ブクマさんはどんどん減っていると考えるべき。(根本的な「何故減るのか」というのは、また別な話。
それは自身が精進しないからであろう)
◆無限適応まぁそういう感じで、
「数字上は増えていても実質は失っているに等しいモノがある」というのは分かりやすくなったと思う。
で、これが、この世のあらゆる物に適応できる気がしてくる。
それは、ブログのアクセスだとか、twitterのフォロワさんの数だとか、
そういう眼に見える形でのショボイ数字に限らず、
まさに最初に言ったような
人生の経験値だとか、
他人からの関心だとか、
「人生上で獲得できる全て」に関わってくる。
そこには成功不成功の基準を設けなければならない。
◆ある程度以下の獲得=損失これは前にも言った
「この世には無駄が必ずある」という考え方の発展版かも知れない。
より具体的に基準を設けて、何が無駄で何が無駄でなかったか
考えることができる。
ハッキリ言ってしまえば、
「平均値よりも低いレベルの獲得量であれば、
それは失ったに等しい」 ということになると思う。
これもまた、pixivで例えると分かりやすい。
「自分の被ブクマさんは右肩上がりで増えているのだから
自分のpixiv内での影響力も右肩上がりのハズだ!」↑こういう考え方が間違っているのが一発で分かるようになる。
それは、
みんな右肩なのは当たり前だからである。
その、
「全員の平均値を上回るスピード」で獲得し続けなければ、
それは獲得とは言えない。
全体の中ではむしろ失っている・停滞しているに等しい。
(これもまたやらしい話だけど、人生の全てに適応できると思って聞いて欲しい)
◆経験率の低さ=死んだほうがマシ「全ての人間が経験値を貯めながら生きている図」を想像して欲しい。
全ての人間が、右肩上がりなのである。
生きている限り、どんな些細な事でも経験値は溜まり続ける。
では、生きていればどんな体験も無駄ではないかというとそうではない。
全ての人間の経験値が増え続けている構図で注目すべきは、
自分自身の経験値がちょびちょび増えている事なんかではない。もし自分の経験値の貯まるスピードが他人よりも遅いのなら、
「自分の経験値は客観的に見てむしろ減っている」と感じられるはずだ。
経験率が低いといえる。
そしてそんな生き方は、生きている価値がないし、
遅れを取り戻すくらいなら
死んでやり直した方がマシだということ。
この、
「遅れている人間は死んでやり直した方がマシ」という感覚も結構重要だと思う。
(カマキリゲーをやってくれていれば分かると思う)
(
一定時間経過後に100円を下回っているプレイは
全て等しく死んでやり直した方がマシだということが分かります)
別の方向から説明すると
それらは全て
「常に何かを失いながら得ている数字だから」。
というのもある。
言ってしまえば人生なんかは、
「寿命」をすり減らしながら生きている。
「人生の可能性」は、生まれた瞬間がビッグバンMAXで、
あとは減るしか無い。 人は常に可能性を失いながら生きている。
その時点で、
「人生上で獲得できる全てのモノは
常に何かを犠牲にしながら、その対価としてかろうじて得ている」と考えられる。
人生の経験値、知識、富、安定、名声、地位、他人からの関心・・・人それぞれ、人生の目的とされるモノである。
自分が人生で最も求めるモノがなんであれ、
そしてそれが右肩上がりで増えていたとしても、
そこには必ず、
「他人と比べた率」がある。
その率が他人と比べて低ければ、
「お前の獲得のための努力は無駄だったな」と言ってしまうことができる。
これはそういう考え方である。
「〇〇にチャレンジしたらこの程度のモノを得られたばんじゃーい」みたいな考え方ではダメなのだ。
◆人生の効率厨だからこそ人間は、
「人生の効率厨」にならないとダメだと思う。
こういうことを言うとすぐ、
「効率ばっかり求めてちゃだめだ」系の事を言う人もいるだろうが、
そんなのは自分に言わせれば全然ダメである。
それはただ、人生において
リラックス・ゆとりを求めている価値観があるというだけの話。
だからそれはそれで、
効率よく、
リラックス・ゆとりを獲得できる生き方を追求しないといけないのだ。
「効率ばかり求めているとかえって効率が悪い」的なことを言う人もいるだろうが、
それもまた、全然ダメである。
これはそんな次元で言ってるんじゃない。
それすら全てひっくるめて、結局
「効率が全て」なのだから。
つまりどう考えても、
人生において効率を追求する以上に重要な概念はない。(仮にそんなモノがあったとしたら、
結局また、ソレを効率良く求めるのが最重要に取って代わるのだから)
◆「実際自分はどうなのか」で、こういうことを一通り考え終えた後、
「結局自分はどうなのか」という最初の問に帰ってくる。
「自分は何かを獲得できているか?」まぁ、どう考えても、最近の自分は失っていますね。
いろんなモノを。
だって本当に、頑張れてないから。
停滞に等しい。
後退に等しい。
退化に等しい。
このままでは、死んでいるに等しい。
◆「興味が失せる」ということこれは自分自身が他人に対してもそうなのだ。
最近、他人への興味がものすごい勢いで失われている。
自分が繋がっている色んな人への関心が全く失せている。
だからこそ、立場を逆転させて考えてみると分かる。
おそらく、自分が繋がっているその人達も同様に、
このニートへの関心を急激に失っているのだと。
まぁ、そんなのは当たり前だ。
何も持たない一般人が、
他人に興味を持たずに他人から興味を得られる筈がない。他人に興味を持てない人間は
他人から興味を持たれなくて当然。
◆ネット上の人格の脆さ更に思う。
ネット上の人格の評価は、本当にこういう概念が加速する。
ネット上では
何かをし続けていないと、死ぬ。
人格死する。
だから常に走り続けていないといけない。
そのスピードは、上記で延々と言ってきたように、
常に他人以上のスピードで走り続けないといけない。そしてもちろん、最近の自分はそんなこと出来ていない。ニートのくせにね。
だから、頑張れていない今の自分は、人格死に向かっている。
◆結論だからなんだ。
それがなんだ。
それが出来ないとなんなのだ。
という話になるんだけど、
「まぁ最近の自分はダメダメですね」以上のことを
言うつもりもないので、このへんでおしまいです。
自分にとっての最強の真実として、
「バカは不幸になってもいい」というのがあるのですが、
今回の話もまた、それを強固にするための一つの考え方です。
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