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「インプット」と「アウトプット」について

風ノ旅ビト
クソ落書きがある。 一次的な出力だと、こんなのしか出せない。
入力だの出力だのについて、思うことがある。


ちょっと
「インプット」と「アウトプット」についての話をします。


これは、絵に関する話でもあり、
ゲームに関する話でもあります。



要は、クッソウザい、駄文です。



 

はじめにこういう疑問ありき。

「絵が下手な人間と、絵が上手い人間とでは、
 見えている世界が違ったりするのだろうか?」


これは、よく考える疑問だ。

これを考えるとき、
自分の過去のことを考える。

時間の変化とともに、
周りの絵が相対的に下手に見えるなんてことは、あっただろうか?

あるような気もするし、
そうでないような気もする。
(やはり世界全体の見え方みたいなモノは、何も変化は無かったような気もするのだ)


「昔はこの漫画家さんの絵が上手く見えていたけど、
今みると、ここ明らかに下手だよなぁ」
という風に
見方が変化して下手くそに見える場合も、確かにある。
(ところで自分はハンタの表紙だと、19巻は別人のように下手に見える)
(ジョジョだと48巻
(絵が荒れてる頃の局所的な例を出してどうする?と思われるかもしれないが
 まぁそういうことだ)

それとは逆に
「昔はこの漫画家さんの絵は雑なだけに見えていたけど
今みると、サッと描いていながらすげぇ味があるタッチだよなぁ」
という風に
見方が変化して上手く見える場合も、確かにある。
(小学生の頃はマサルさんの絵が雑にしか見えなかったけど
 中学生になってジャガーの絵がすごくうまく見え出す症候群)


これらの場合をどう解釈するか。


絵が上達したから、変化したのだろうか?

それとも見る目のレベルが上がったといえるのだろうか?


自分は、後者だと思うのだ。


◆「インプット」と「アウトプット」

過去の自分はなんとなく、
「総合的なお絵かきのレベル」みたいモノがあって、
目が良くなれば自動的にそれは上がるし、
絵がうまくなれば同時にそれも上がっているだろうと思っていた。

絵が上手い人は
「自分より絵が下手な人の絵は全て下手に見えているだろう」
絵が下手な人は
「自分より絵が上手い人の絵は全て上手く見えているだろう」
と思っていたのだ。

・・・
一見間違ってなさそうだけど
最近は、実は違うのだと考えるようになった。
(特に、後者が圧倒的に違うのだ



この根拠だが、
「インプット」と「アウトプット」は基本的に別だと考えるようになったからだ。
同じような機会に上昇したりするから混同しがちだが、
基本的に別パラメーターなのだ。



用語がコロコロ変わったりするから
ちゃんとまとめておく。


「インプット」とは、
・目の良さの事。
・観察眼/審美眼の事。
・何が上手くて何が下手かを見極める、入力能力。
・ハードルの高さ。



「アウトプット」とは、
・手の巧さの事。
・最終的な絵の巧拙の事。
・才能、経験、小手先の技術、全てひっくるめた、出力能力。




◆断定的結論

で、これらの用語を使いながら、
自分の考えや結論を押し付けていきます。


インプットとアウトプットでは上昇のしやすさが違う

インプットはモノを見てるだけで上がる
観察力はそれだけで上がる。
それだけでハードルを上げることは出来る。

だがアウトプットに関しては、
「インプットがアウトプットの上達の上限になる」というだけで、
見る目が上がっただけで絵が上達することはないということ。
(つまりインプットとアウトプットでは上昇のしやすさが違う)
(この辺を昔の自分は勘違いしまくっていた)

これはインプットとアウトプットを分けているからこういう表現になるわけだが
実際インプットのハードルが上がることで
アウトプットの上達の訓練のハードルも上がるわけだから、
結果的に、「インプットを鍛えることでアウトプットも同時に上達する」
かのように思える場合もあるかも知れないが、
やはり、「絵を見ているだけで絵が上達する」なんてことは無いワケだ。
手を動かさないとダメ。

そして、インプットのハードルも同時に上げて行かないと、だめ。


インプットはアウトプットの上限を決める

簡単に言うと
レベルがあるなら常に、
インプットLv > アウトプットLv
という風になっているということだ
(自分が最高に上手いと思っている以上の絵が描けることはない)

だからこそ当然なのだが
「自分の絵が下手くそに見えているのは当たり前」なワケだ。


そして、アウトプットLvを上げたければ、
インプットが上限として引っかかる場合は、
インプットLvを先に上げないとアウトプットLvが上達することはない。
(そういう場合は殆ど無いと思うが)


逆に、
アウトプットがインプットに対して全く追いついていない場合は、
特に目を鍛えようが鍛えまいが変化はない。
それはもう、そのままアウトプットするしかない。



他人のアウトプットから、他人のインプットを推定することは出来ない

インプット自体は皆、普通に高いと思うのだ。


殆どの人が、圧倒的に
「インプット>>>>アウトプット」の状態になっていると思う。
絵を描く人だろうが、絵を描かない人だろうが。
(そして、日本人は皆そうだと思うのだ)


ここから考えられることは、
絵を描かない人だからといって
「見る目がない」なんて決め付けることは出来ない
、ということだ。
(自分のインプットが自分のアウトプットの上限になるのは自分自身でわかる)
(だが、他人のアウトプットから、他人のインプットを推定することは出来ない)


もっというと、
「出力された絵の実力」からも、
それを描いた本人のインプットLvは、推定しようがない。

(一応、出力Lvが推定インプットLvの下限ということにはなっているが、
 やはり下限が分かるだけである)
(もちろん、絵が無茶苦茶上手い人は、
 それだけ目の良さの下限の高さも保証されるわけだから
 「絵が上手い=目が良い」と単純に言ってしまってもいいかもしれんが、
 やはり、他人の内部に関しては不可知安定だろう)


このことから分かること。

例えば、
「この人は自分よりも絵が下手だから、
 この人から見れば、自分の絵は下手くそには見えていないだろうな~」
「自分の絵が下手くそに見えている人がいるとしたら、自分より絵が上手い人だけだろうな~」

などという推定は、間違っている可能性大だということ。

だから人間は
全ての人間の目を恐れなければならない。

手に関しては、絵を見れば分かる。
だが、目に関しては「分からない」のが本質だ。

自分から見てどんな雑魚であっても、
油断はしてはならないのだ。






で、まぁそんな感じで、言いたいことだけぶちまけた挙句
段々どうでも良くなってきた。




◆応用

それにしてもこの
「インプットアウトプット話」は人生のあらゆることに応用が効くと思うのだ。

文章に関するインプット・アウトプットとかもね。
(何故自分がクソ文を垂れ流すしか出来ないかというと
 本を全く読んでいないからだよ!)

他には、ゲームにしてもそうだし
この世の消費物に関すること、審美眼に関すること、
全てで言えることだと思う。
人生の経験率とも言える。



◆充電中だから

「インプット」「アウトプット」という言葉を
別の方向から捉えるとするなら、
最近の自分は何をしているかというと、
まぁ、遊んでばかりなワケだ。


それも、過去にプレイしたことのあるHDゲーをやっては
「やっぱこのゲームは神ゲーだわー」って感じの遊び方だ。

まるで「反芻」のようなゲーム人生である。



さてこれらの遊び行為は、
ゲームに関する「インプットLv」を上昇させていると言えるだろうか?


多分違う。


上で書いたとおり、
誰だって審美眼だけ伸ばすことは簡単なのだ。

ゲームについてプギャったり
分かったようなことを言うだけなら誰でも出来る。

じゃあいっぱいゲームをに触れることで何か作れるようになるとか、
ゲームを作るための腕が上がっているかというと
そういうわけではないのだ。 そういうことをずっと言ってきたわけだ。



じゃあなんなのかっていうと
やはり遊んでいるだけなのだろう。



オレ去年は充電してたんだYO まあ おととしも充電してたけど
(そして今も充電してるんだけど)





ところで「風ノ旅ビト」ってゲームをやったのですが
神ゲーでした。


PS3ユーザーなら全員やるべきだと思う。



関連記事
[ 2012/04/11 17:48 ] イラスト | TB(0) | CM(2)
I/O
 JISの定義によれば、「情報」をコード化して「データ」にするのがインプット、その逆がアウトプットということになっている。入力と出力だ。

 つまり、同じ“情報”を内面化(符号化っつーか、要するに自分の内側にある処理の体系に組込むこと)したとしても、その“内面”っつーのが変化すると、その内面における ありようというのは変化する、っつーコトになるんだわ。

 昔は「つまんねー!」と思っていた作品が、「これはオレには真似できねぇ!」に変化することだってあるっちゅーコトなのね。

 たとえば「おにぎり形」(関東風の三角おにぎりの形)を、「三角形の角の丸くなったやつ」と解釈するか、「丸の三角っぽいやつ」と解釈するか、それともまさしく「おにぎり形」(似たようなものとしては、ロータリーエンジンのローターに使われているルーローの三角形みたいな、それ自体に意味のある図形)として捉えるか、みたいな、内面における差、というか内面における解釈の変化、というのが、あるわけですよ。

 「ダサい」と思っていたものが、「単なる稚拙なダサさ」なのか、「余裕から出たダサさ」なのかの違いとかも、ある程度踏み込んでみないとわかんない部分というのがあるわけですね。「オレってCOOLだぜぇ!」と思って書いたコードが後から考えたら「馬鹿じゃん ……」みたいな話は、仕事でプログラムを書いていると珍しくなかったりするし。

 アウトプットの実力がついてくるとで、「そうか、作者はこういう意図でこういう表現をしたのか」みたいなものも見えてきて、表現上の失敗すらも「チャレンジの痕跡」「試行錯誤の結果」として「ああ、わかるわかる」みたいな感じで好ましく見えたりするのね。自分の作品だと単に恥ずいだけだけど(笑)。

 いかに恥知らずな作品を発表するかっつーのが今のところのオレのテーマかも知れん(笑)。
[ 2012/04/13 16:35 ] [ 編集 ]
コメ返信
> Mr.Moto さん


>「つまんねー!」と思っていた作品が、「これはオレには真似できねぇ!」に変化することだってあるっちゅーコトなのね。

これはありますねー。 
自分はゲームやるときは大抵そういうモードになっているので、
だからこそ自分は大体のゲームはそれなりに評価してしまうんでしょうね。
(意味もなく、無駄に作り手視点なだけでしょうがw)



>ロータリーエンジンのローターに使われているルーローの三角形

これは面白いですね。 
確かに、そう考えるとおにぎりがあんな形になるのは必然な気がしてきますw



>「ダサい」と思っていたものが、「単なる稚拙なダサさ」なのか、「余裕から出たダサさ」
>アウトプットの実力がついてくるとで、「そうか、作者はこういう意図でこういう表現をしたのか」みたいなものも見えてきて、

こういうのが分かるか分からないか、というのが
目の良さでもあり手の良さでもあるような、そんな感じでしょうか。
手の良さが目の良さに繋がるパターンですね。



>いかに恥知らずな作品を発表するかっつーのが今のところのオレのテーマかも知れん(笑)。

ですねー。
出力しないことには、プギャ消費者と何も変わりませんからねー。


しかしその「タダの消費者の目」というのも
実はそんなに軽んじていいものではないのではないか、そんな気分になっているのですね。自分は。

[ 2012/04/16 09:30 ] [ 編集 ]
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