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ヘビーレインは人生

書くことがない。
が、本当は書こうと思えばネタは腐るほどあるし、やろうと思えばいくらでも長文を書けるのだ。
滅茶苦茶支離滅裂な文章になるが。

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ちょっと「ヘビーレイン」というゲームについて語り出す。


というか本当はゲームそのものよりもそこから派生する価値観の話がしたい。


「ヘビーレイン」→「QTEの是非」→「人生の是非」→「一度きりのゲーム」
みたいな流れの話をしたい。



何故、今更突然ヘビーレインの話なのかというと、
自分の好きな生主さんがこないだ配信してたから。
そこで改めてヘビーレインの真髄(一期一会の失敗と成功感)を見出した。
ヘビーレインはとても生配信向けのゲームであることもわかった。




 
ヘビーレインばなし


ヘビーレインがどんなゲームなのか一言で言ってしまうと
「QTEゲー」である。

ほぼ全ての行動がQTEである。

画面の上に表示されているコマンドを、押す。

これ。

最近アクションゲームで多用されて
「QTEはクソ」などとよく言われている、あのQTEである。


だがヘビーレインは、「最高のQTEゲー」なのだ。


アクションゲームのボス戦で使われるQTEはNGだが、
ヘビーレインで常に要求されるQTEはOKだと感じる。

この差は何故なのか。
この違いはどこから来るのか。


その、一番の本質の部分が今、突然分かった。 (というか文章化)

「失敗を肯定しているからだ」



ヘビーレインは、QTEで失敗しても「ハイそこで終了」ということにならない。
ストーリーはノンストップで進む。

「プレイヤーが失敗してしまう」ということすら含んだ、リアルタイムのシナリオ分岐なのだ。

そのシナリオ分岐がどれくらい強力なのかというと
「たとえ主人公の一人が死んでしまっても、そこでやり直しにならない」レベル。


このゲームに、ゲームオーバーはないのだ。


だからこそプレイヤーは、
QTEにハラハラするが、イライラはしない。


そして、プレイヤーは、本気でこのゲームに挑戦するようになる。
「失敗は無い」にもかかわらずだ。
オートセーブで「一回しか挑戦できない重要な選択肢」を常につきつけられているからだ。


・・・
これはまるで「人生」ではないか。



ゲームと人生で何が一番違うか。


その決定的な部分は
「やり直しが効かない」
「一度きりしか経験できない」
という所になってくるだろう。


その辺の差を縮めるためにも
「オートセーブ」や「ランダム性」が出てくるわけだが、
そういうのが活かせるのは、今までせいぜいアクションゲームやローグライクのジャンルくらいだった。


選択肢、シナリオ分岐・・・
要は「ストーリー分岐がキチンとあるアドベンチャーゲーム」
あえてオートセーブを採用し、しかもプレイヤーがどんな行動をとっても
それをフォロー出来るほど強固なイベント分岐の受け皿を用意した。
・・・この辺が、ヘビーレインがスゲーゲームである一番のポイントだろう。


(とはいえヘビーレインにもチャプターセレクトとか普通にあるんだけどね)
(だから結局トロコンしようとすると覚えゲーになってQTEにイライラするところもあるワケだ)
(カミカゼとか)


・・・というのはまぁヘビーレインを評するなら当たり前の話。

自分は脱線がしたい。


こういうことについて考えていると、
本当に、「人生とゲームについて」考えてしまう。



人生は、オートセーブだ。
そして、常に一度しかルート選択はできない。


だから、
「今の自分がどの程度の成功ルートor負け犬ルートを通っているか」
なんてことは本来、絶対的、客観的に評価することなんて、誰にも出来ないのだ。


そんなことが出来るのは、
自分の人生を好きなポイントで何度もやり直して
常に最良の選択肢を選んできたと豪語できるような、
人生をTAS的に生きてきた人間だけだ。

そしてそんな人間はいない。 超人思想。


だから、本当は誰も「他人の人生が最良だったか・最低だったか」とか論じることはできない。


自分自身ですら、「あの選択肢は失敗だった」なんて言えない。
だって、その時点では「それが未来で失敗だと分かったという記憶」を持ってなかったのだから。
その時の自分は、そうするしか出来なかったのだから。


これは、いつも自分が言っているような
「人間には所詮自由意志なんてない」というアプローチからの話ではない。


仮に人間に自由意志があったとしても、
人生に選択肢があるかないかなど、論ずる意味が無いのだ。
一度きりの時点で、時間が不可逆な時点で。



で、このへんで脇道の脇道は止めて、脇道に戻ってくる。

こうやって、「人生とゲームの違い」について色々考えていると、

・なぜ人生のこのようなポイントにワクワクしないのか

・なぜゲームのこのようなポイントにワクワクしないのか


みたいな疑問と、その原因が見えてくる。



もしも人生がゲームだったら、これは神ゲーなはずだ。

こんなにグラフィックが凄い!
こんなにフィールドが広い!
こんなに自由度がある!



・・・その割には、プレイヤーの行動は随分と単調な気がする。
自分自身本当に不思議に思う。


もしも人生がゲームだったら、
よく分からん脇道に入ってみるとか、
道に落ちているよく分からんモノを拾ってみるとか、
一度も入ったことのない店に入ってみるとか、

そういう「新鮮な行為」をもっとしている筈だ。 というか、するべきだ。


なのに、何故しない?


何故、人生のプレイヤーは自分で行動範囲を狭めて
つまらんルーチンワークに生きてしまうのだ?
(別に、「大きな失敗」を恐れているワケでもない時に、変化から避けようとしてしまう)


まるで「気力ポイント」というか「奇抜ポイント」のような隠し内部パラメーターがあって、
それがある程度貯まらないと新鮮な行為が出来ないように定められているかのように感じる。


(もし自分が、本当にリアルなゲームを作るなら、この「奇抜ポイント」を用意してしまう気がするのだ)
(奇抜ポイントが足りないと、なにもない所でジャンプアクションとかも出来なくする)
(実際、人生ではゲームの主人公みたいにストレス軽減のようにジャンプしまくったりはしないのだ)



逆に、ゲームを人生から比べてみたときに見えてくる問題はなんだろうか。


「最適解が余りにも簡単に分かってしまう点」ではないかと自分は思う。


上でも言ったとおり
人生の場合、完全に強固なオートセーブと
あまりにも複雑な関係の中での選択肢(しかもそれは常に一度きりしか選べない)のお陰で、
「何が最適な行動だったのか」ということは常に不可知になっている。


これが、人生の攻略とゲームの攻略の一番の違いだと思う。
そして、人間がゲームに飽きてしまう一番の原因だと思うのだ。



ゲームは、解が明瞭すぎる。

「ここでこうすればあのアイテムが手に入る」とか
「ここはこうやるとうまくいく」とか
そういう情報が、固定で、完璧で、「一度覚えればそれまで」になってしまっている。


これがどういうことに繋がるかというと
「正しいノウハウを自分で手に入れていく」ということへの価値が物凄く薄れていくのだ。


具体的にいうと、「攻略サイトが存在する」ということ自体がゲームをつまらなくしている事実。

自分が自力で習得していった「なんとなくうまく行く方法」なんてものは
既に攻略サイトにあるだろうし、自分が見つけていない最適な行動パターンも、
攻略サイトにいくらでも載っているだろう。


この構図のせいで、「自分で攻略を見いだす」ということは物凄い危機にさらされている。
(残っているのはプライドくらいだ)
(「攻略サイトを一切見ずにクリアした」という勲章を自分に授与するためだけの動機)

(「自分で見出す」とは何なのか)
(何故そこに価値があるとされているのか)
(むしろ、どうやったらそこに「確かな価値」を与えられるのか)
(こんな時代だからこそ、改めてそこを考えていかなければいけない)



人生の場合はこうはいかない。

自分でしか考えられない、自分でしか調べられない、自分で見出すしかない、自分にしか通用しない、
自分のためにしか役に立たない、自分しか有難がれない、そして、自分でも正しいのか確信が持てない

そんな、「うまい立ち回りの習得」が、常にどこかにある。


このような人生の有り様を、なんとかゲームに持ってこれないだろうか?


もしもそのようなゲームが成立した場合、
攻略サイトなんてものは通用しなくなる。
(攻略サイトを作ろうとしても作ることができなくなる)


・・・自ずと、どのようなゲームなのかが見えてくる。


アイテム、イベント、フィールド、アクション、システム、グラフィック、キャラクター、音楽・・・

「ゲームを構成するありとあらゆる要素」
「自分ひとりのためだけ」「一度きり」でかつ「最高品質」「自動生成」される。


そんなゲームになるはずなのだ。



システムも自動生成だが、根幹の部分は共通している。
ゲームオーバーが無いということ。
いやむしろ、主人公が死んだら、絶対にコンティニューが出来ない。
最初からゲーム生成しなおしになる。
それをオートセーブでプレイするのだ。


そんな、この世に一つしか無い、自分のためだけの、一度きりのゲームを
自力で攻略を見出していく。 それは自分にしか出来ないことなのだ。


もしもそういうゲームが完成したら、
それはおそらく史上最高に面白いはずなのだ。


当たり前である。
それは「人生」と「ゲーム」の面白いところのハイブリッドだからだ。



人生とかゲームについて考えていると、いつもこういう所に行き着く。

全てがランダム生成の一度きりのゲーム。

こんなタイプのゲームは、まだ出来ないのだろうか。


いや、自分と同じような考えの人間が
既に似たようなコンセプとで何かやろうとはしているだろう。

だが、まだ全然理想からは程遠い筈だ。
(結局、ランダムに選ばれたイベントをこなすだけのRPGになったり)
(アイテムの名前がランダムだとか、その程度だったり)


大体、そのゲームは全てがランダム生成でありながら
生まれたゲームは全て良いバランス調整の文法で作らていて、
つまり、全て面白くなければいけないのだ。


(もしその辺のバランスが崩壊してて、運ゲーになるということは
 それはつまり「人生のつまらない部分」が出てきているということだ)
(人生は運ゲー)(初期パラメータゲー)
(そのゲームは人生とゲームのハイブリッドなのだから、そうではイカンのだ)


そしてそんなエンジンを作り出すのは、100個の単品の神ゲーを生み出すのよりも難しいだろう。


(つまりそれは、無理ってことなのか?)
(だがそれでも、そんな「最高のゲーム」について妄想してしまわないか?)

(誰だって一度は考えるはずだ)
(どのような要素が結びつけば最強のゲームになるのか)
(その文法はどこから来るのか)
(その法則性を掴むことが出来れば・・・)



やはり、手短なところでいうと、シレンか?ということになる。

結局ローグかよ。


勿論、全然違う。 
自分の思っている究極のランダム生成ゲーからは、全然程遠い。

シレンだって結局、「定石」のようなモノが「ゲームの外」にあるからだ。
シレンだって結局、「攻略」を見て「自分の実力以上に」上手く進めることは可能だからだ。


「攻略を見る」ということが、
「自分自身がうまくなる」という要素よりも強く作用する時点で、それはダメなのだ。




すると、次に見えてくるのは

誰も攻略サイトを作っていないような、
むしろこの世で誰もプレイしていないような、
そんな「無名のフリーゲーム」だ。


そういうゲームをプレイしているときは、
通常のCSゲームをプレイしているときとは明らかに脳の喜びポイントが違うわけだが、
その理由はこの辺にあるのかもしれない。



誰もプレイしていないゲームが、この世のどこかにないだろうか。



結局自分は「ゲームは一人でするもの」だと思っているのだな。


こういう「限界を超えた未来のゲーム」を想像するとき
普通はもっと「感覚の延長」とか「全く新しいオンライン要素」とかに行くと思うんだが、 (外に外に)

自分が言うのは「自分一人のためだけにしか存在することが出来ない世界」なんだ。 (内に内に)



オンライン要素が、そういう「自分の世界」を阻害していると信じているのだ。

「ゲームの外に攻略情報がある」ということを感じさせてはダメなんだ。

(だからこそ、例えオンラインゲームであっても)
(風ノ旅ビトとか、デモンズのように「攻略情報はゲーム内でシェアさせる」みたいな試みが重要になってくる)


だが結局はどんなゲームであっても、
外部に攻略サイトは作られてしまう。


想像してみて欲しい。

この世のどこにもデモンズの攻略サイトが存在しなかったら、
どんなに素晴らしかっただろう!!!



こういうことを考えてしまうんだ。


となると、どうなるか・・・最初の所に戻ってくる。


「自分のためだけに生成されたデモンズ」があれば、どんなに良かったか。
(もしくは、ごく狭いグループのためだけに共通して生成されるゲーム

想像してみて欲しい。

ワクワクしてくるでしょう?





ゲームは一人でするもの。

人生は自分ひとりにしか共有されぬるもの。

人は一人。



結局自分はそう思って生きているんだ。

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[ 2013/02/17 14:46 ] ゲームプレイ話 | TB(0) | CM(0)
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