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そんな風にキチガイじみている自分でも、一日寝ると
なんであんなに発狂していたのか分からなくなるので
ああいうテンションの持続は凄く難しいのだ。

でも続けてみよう。


こっちから「震災の話」

というか結局「戦争の話」になる。

当然、誰も読むべきではない。



 
震災二年後でニートが書く文章がこれ


今回
本当に話があっちゃこっちゃ飛び散るので注意。


さて、前回書いたように
そういうみすぼらしく、不満だらけで、一日中発狂している自分にも、精神安定を図るための物がある。
そういうのがあるから、まぁ生きていけるんだろう。

それは結局、「作品消費」ということになる。


特に効果を発揮する極端な2つの例を挙げると
・地球大進化「第01集 生命の星」 だとか
・映像の世紀 第5集 世界は地獄を見た  だ。

(誕生と破壊の両極端)
(自然と人為の両極端)
(だが、どっちも猛烈に感動するのだ)


とくに後者だ。 「世界は地獄を見た」

こういうのを見ていると
自分の人生なんかには、別に何の悲劇性も無い気がしてくる。
何の泣き言も吐けないような気がする。
タダのぬるま湯に浸かった腑抜けの人生だ。



要はそういうことになってくる。

自分が震災を思う時も、「そういう使い方」をしていることに気づく。

2万人の人間が死んだのだ。
その悲劇性から比べれば、自分の人生の糞さなんか、取るに足らないことのように思えてくる。


だが違う。

いつもいつも言っていることだ。

「自分の人生に殆ど影響を与えないほど離れた場所に住んでいる人間」に感情移入して、
「それと比べて自分の人生はどうのこうの」なんてことを論じるのは、ナンセンスだ。

「アフリカでは子供たちは飢餓で苦しんでいます!!」

今の時代はこういうフレーズが連呼されすぎて、
それに反逆する考えばかりが生まれてしまう。



遠く離れた場所で苦しんでいる人達のことを考えれば謙虚になれる、というのなら、
遠く離れた場所で悠々自適の生活をしている貴族のことを考えればみすぼらしく思えるはずなのだ。



自分が生きている人生は、地獄なのか? 天国なのか?
一体何と比較して?


例えば、遠く離れたアピヨン星のことを思うとする。
そこでアピヨン星人たちは、霞を食うだけで生きていけるとする。

そう妄想するだけで、この地球は地獄だ。

「生きるためには他の生物を殺して食べなければいけない」

今の地球人にとっては当たり前のこんな行為だって、アピヨン星のことを考えるだけで
信じられないほどおぞましい呪われた因習にしか思えなくなるだろう。


「我々は他の生き物の命を奪っているのだから、食べ物には感謝しないといけないのです」「いただきます」


こんなフレーズだって、
アピヨン星人からすれば恐ろしいスローガンだ。 洗脳なんだ。

アピヨン星人が地球にやってきたら、
何を言われようと他の生き物を殺して食べたりせずに、餓死することを選ぶだろう。

それが「態度価値」だ。



で、話がズレまくった。

そういうことをすぐに考えてしまうので
自分は震災のことから自分が恵まれてるとか、運がいいとか、生きてるだけで丸儲けとか、
そういう風には簡単に思えないのだ。



だが、やっぱり色々考えてしまう。

自分は震災をどう捉えたらいいのか、ということをずーっと考えてたりする。
(どんだけヒマなんだろうか)



周りの人達を見てみる。

自分の周囲の人達は、震災二周年をどう捉えているだろうか。

語るのを避けている人が多いような気がする。


それは仕方がない。

今度の震災は、あの「不謹慎厨」という言葉を生み出した災害だからだ。


こういう言葉が生まれて、
結果、善意であればなんでもヅケヅケ言えるようになったかというと、実は逆なのだ。


善意でドギツイ事を言って、
それに「不謹慎だ!」と言われても、
それに対して「不謹慎厨だ!」とカウンターをかませる人間は、物凄く限られる。
(そんな、カウンター狙いで待ち構えるような態度で生きていけるのは、乙武さんくらいだろう)


結局、みんな「ちょっとでも角が立つようなこと」は言わないようになってしまったのだ。


「3月11日は悲しい日になりました。多くの方にとって、決して忘れることのできない日になるでしょう。
でも、だからこそ、あえてツイートします。毎日が必ず何かの日です。だから今日が誕生日の皆さん、おめでとう!! だから今日が記念日の皆さん、おめでとう!!」


NHK広報局がこれくらいのことをツイートすると、やっぱり炎上する。 不謹慎だと。
ポジティブに捉えようとする姿勢の中にも、非を見出してフクロ叩きにするのだ。



自分に言わせれば、
そういうムードがあるからこそ風化するんじゃないのかと思う。

たった二年で、3・11はここまで風化した。
一年前じゃ想像できないくらいのスピードじゃないか。

今はそういう時代なのだろうか。


多分、あと10年もすれば3・11という数字の前で神妙な態度になれる人は、かなり減ると思う。
(例えば今、「117」を覚えている人はどれくらいだ?)
(みんなもう、阪神淡路大震災なんかどうでもよくなってるだろう)
(10年というのはそれくらいに恐ろしい)


アメリカ人がずーっと911を覚えていそうなのとは、何かが決定的に違うと感じる。


それは、やっぱり「天災」だからだと思う。


結局自然が起こしただけのこと。
地震大国に生きている以上、ある程度は諦めなければいけない。
311、117という数字をずっと覚えていてそれが何に繋がるのかよく分からなくなるのではないか。

数字を覚えて、死者の数を思い出せばいいのか?
人災の面、反原発の象徴にするのか?


そうじゃないだろと思う。



それでも、もし、この出来事を風化させたくないのなら、本当にしなければならないことはなんなのか。
それは追悼の強要だとかでは無い。


自分は「名画を作ること」だと思う。


こういうことを考えていると、
やっぱり戦争の凄まじさに圧倒されてしまう。


結局こういうところにつながってくる。


自分が自分の人生について考えるとき、
同時に震災や戦争のことを思っている。


3・11の前日は3・10であって、これは東京大空襲のあった日である。

多分数十年が経った後でも、
変わらず語り継がれるのは3・10の方だと思うのだ。


自分はずーっと、「火垂るの墓」から空襲のイメージを得ることが出来る。
戦争の空気感をそこから摂取することが出来る。




で、ここからずーっと戦争の話しかしない。


戦争と、戦争から生まれた作品の凄まじさに触れる度に、そのレベルの違いに圧倒される。
このことを最近ずーっと考えている。


戦後生まれた人間は、戦争体験を持ってる人間に絶対勝てない、つくづくそう思う。


戦後の人間の人生には、何もないような気がする。

何の原体験もない。

何の原風景もない。

何の悲劇性もない。

何かを生み出すにおいて、何の必然性もない。


戦争を経験した人間が、その圧倒的な体験から作品作りをする必然性、それから比べたら
現代人がする作品作りは何の理由付けもない気がする。


・・・まじで、こういうことをずーっと考えているのだ。



もうちょっとこの辺の話を続ける。


例えば、古き良き、 ホンモノの人達。

そんな人達の傑作に触れる旅に出る度に思う。

「彼らの最高傑作は何か?」ってことを考えると、いつもたどり着く終着点がある。


もしも、手塚治虫の最高傑作が「アドルフに告ぐ」だとしたら・・・
もしも、チャップリンの最高傑作が「独裁者」だとしたら・・・
もしも、スピルバーグの最高傑作が「シンドラーのリスト」だとしたら・・・
もしも、ピカソの最高傑作が「ゲルニカ」だとしたら・・・
もしも、水木しげるの最高傑作が「劇画ヒットラー」だとしたら・・・



「各界のホンモノ」巡りをしていて、
さらにその人の作品群の「最高の上澄みの一滴」を追い求める時、
意外なことに、「かの冷酷な独裁者」に辿り着いてしまうのだ。


どういうことだよって思う。

(いやまぁ、チャップリンは「ライムライト」とか言っときゃよさそうだが)
(水木しげるは「総員玉砕せよ!」でいいと思うが)
(スピルバーグなら「ジュラシックパーク」が一番すごかったと思うが)


いや、別に自分はここでヒットラーを礼賛したりはしないけど、
彼がある意味、「最高の人生の成功者」であることは確かだと思う。

これだけの各界の「本当の表現者たち」
彼らの「芸術的生涯」の中で、
最高に燃焼できたのがヒットラーを描いている時だったとするなら、
どうしようもない何かを感じざるを得ない。


と同時に、やっぱり彼らは反則じゃねーか!とも感じる。


まさに「鬼に金棒」だ。

彼らには類まれなる才能があり、かつ、
「ヒットラー」という「最高の芸術的モチーフ」に出会えた。 そんな時代的背景を持っている。


やっぱり、現代人には逆立ちしたって辿りつけない。
そんな「傑作を産む条件」を感じる。


世界は不可逆的に変化してしまった。
腑抜け、平和ボケした、空虚な世界に。



いや、それでもだ。

まだ世界には「背負うべきモチーフ」は在るんだよ。
そこに気づかなきゃいけない。 見出さなければいけない。


自分が認める「現代を生きるホンモノの人達」は、当然気付いている。


たとえば、それがまさに311なわけだよ。
(自分みたいな糞ニートが、延々と震災について考えているのはこのためだ)


311の後、それを作品に取り込めた人間は稀有だ。
ほとんどの人間は、「震災・大災害」を作品内で描くことを避けたのに、だ。


具体的にはどんな作品か。

・ハンタは、明らかに放射能汚染で苦しみながら死んでいく王を描いた。

・ヱヴァQは、震災後の蹂躙され何も無くなった被災地そっくりの、フォスパク後の世界を描いた。

・ジョジョリオンでも、杜王町が震災を受けたことを示し、
 それにより隆起した「壁」が、能力者達の発生のキーになっていることを匂わせている。



まぁ、そういうことだよ。

冨樫、庵野、荒木先生、
自分がホンモノだと認める人達。

(こういう人達はまた、アンチからパクリの常習犯として挙げられることも多い)
(だが最近、天才とはそういうものだと思うのだ) 
(本当に貪欲だから、無邪気にすべてを吸収してしまうのだろう)
すべてのオリジナルは模倣である


こういう人達は、
震災から逃げない。
あの災害すら、自分の作品の中に取り込むことに躊躇しない。


そのためにちゃんと被災地に赴いて、取材したりしてるのだ。


普通の人間なら、逃げてしまうんだよ。 これが、マジで。
「震災後にカタストロフを描く」ということが怖くなってしまう。

まず何より批判を恐れてしまう。
そして自分が何を描いているのか分からなくなってしまう。
自分を見失ってしまう。


この「姿勢の差」は何から来るのか。


それは、「覚悟の差」だと思う。
自分の作品に対する「自信の差」でもある。
作品作りに対する根本的意識の差だろう。


まさに今まで自分が言ってきたような話のとおりだ。

「ホンモノ」とはどんなものか。

時代や国を超越できる傑作を作るためには。どんな姿勢でなければいけないか。

時代を超えるために、むしろ時代性を取り込まなければいけないのだ。

そのためには自分の国で起きた大震災くらい貪欲に取り込めなくてどうする。

本当に傑作を作ろうとするなら、それくらい平気でしてしまうのだ。

そして、実際に成し遂げてしまう。


だから、実際、ハンタの蟻編のラストはいつ見ても心を打たれるに決まっているのだ。


そういう感覚が、わかってくるだろう?




・・・

・・・


とにかく震災から連想することをメタクソに書いてきた。


自分の伝えたい感覚、その要点をまとめると、


・震災から自分の人生を省みることも出来るが、それをするなら戦争の方がもっと凄い。

・それでも震災を風化させたくないのなら、人は名画を生み出さなければならない。

・だが、今の、戦後の腑抜けきった人間達にそれができるだろうか。

・出来る。出来るのだ。 そういう姿勢で創作をする人達は、震災から逃げないのだ。




こんな感じになる。

なんのこっちゃ。

完。


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[ 2013/03/12 13:35 ] ニート生活 | TB(0) | CM(0)
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