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「風立ちぬ」の感想文

めがね

「風立ちぬ」を観てきて、凄く良かったのですが、
この映画は感想を述べるのがかなり難しい。
だから、これだけの感想文書くだけで10日以上かかってしまったのだ。

(いや、簡単なことだけなら言える) (妹かわいい!とかね)


この映画を褒めると、ともすれば
右からは左扱いされ、左からは右扱いされます。
でも、そういう見方は絶対的に間違っているのです。


だからまずは、自分の「戦争観」の話を全力でします。

その上で更に言っておきますが、
この映画と個人の「戦争観」は一切関係ありません。

そのことを理解するためにも、一度、戦争観について語らなければならないのです。
ややこし。 めんどくせー。 そして、すっごく難しい。



まぁそんな感じの、マジでどうでもいい事から入っているので
映画の感動が潰れるかもしれない読まなくていい部類の文章です。


多分自分がメインで言いたいことは「眼鏡の話」「10年の話」です。 そこだけ。


当然ネタバレ注意です



風立ちぬの感想られつ


◆まずは最近の自分の「戦争観」の変化について


全然関係なさそうな話から始まります。


↑最近の自分は、こういう「銃の歴史系の動画」を片っ端から見まくっています。

(それは、元々はゲームに登場する銃への理解を深めることが
 ゲームをより楽しむための味付けになるだろう、ということで始めたのですが
 もはやそういうのを超えて面白くなってきています)


で、こういうのを見ていると、「天才的人物」にぶち当たります。

例えば、銃の歴史において、その最たるものが、「ブローニング」


ブローニングの為したことを考えると、「人類の歴史、戦争の歴史とはなんなのだろう」という気分になって来ます。


例えば、
第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエヴォ事件」で使用された銃は、
ブローニングが作った銃、FN ブローニングM1910だと言われています。

そして、「機関銃」を発明したのもブローニングです。
機関銃の登場により、それまでの戦争のあり方は劇的に変わりました。

歩兵戦 → 機関銃戦 → 塹壕戦 → 戦車戦 → 戦争の大量殺戮化
・・・
このような流れを起こしたきっかけが、機関銃だったワケです。

もしもブローニングがいなければ、人類の闘争の歴史はどれほど変わっていたでしょうか。

もし、二度の世界大戦が起こらなかった世界があったとしたら、
そこでの人類は今より進歩しているのでしょうか? 退歩しているのでしょうか?



かつて自分は、
「戦争は人類の進化を促す起爆剤となっている」みたいな認識をしていました。
だから、そういう記事も書いてきました。


でも、こういう事例について知ると、
「人類の歴史というのは、実は天才的な個人の行動によってたやすく変化してしまうのではないか」
という気分になってくるのです。

つまり
天才が歴史を動かすのか、歴史が天才を動かすのか
天才が戦争を産むのか、戦争が天才を産むのか
という問題です。

(まるで「ニワトリと卵」のようではあります)
(でも「鶏と卵だから答えはないだろう」などと簡単に思考停止していい問題でもないと思うのです)


そもそも、機関銃のような超オーバーキルで高火力な発明を、当時の戦場は必要としていたか??
どうも、そのような気はしませんよね。

ブローニングの発明は、なにかこう
「必要は発明の母メソッド」から生まれたようなモノを超えているような気すらするのです。


それが「必要」によって生まれた発明でないのなら、
「コロンブスの卵」のようなことは起きないのです。  車輪は「再発明」されないのです。


あまりにも未来を先取りしたような発明だと、
「ブローニングがいなくても結局は誰かが発明した」みたいなことは言えなくなる気がしてくるのです。


つまり、時代や戦争という「必要」によって技術が押し上げられてきたのか?
それとも、個人の先駆的な「情熱」が時代を変化させてきたのか?


という問題になってくるわけですね。



一体自分が何の話をしたいのか、まだまだ見えてこないかもしれません。


とにかく「堀越二郎」という「零戦の設計者」の人生について触れる際には、
こういう問題について、絶対に一度は本気で考えないといけないのです。



堀越二郎が生み出した「零戦」もまた、日本の戦争のありかたに大きく影響を与えてしまったワケです。




「もし日本軍が零戦を持ってなければ真珠湾攻撃はなかった」という見方があります。
「零戦が無ければ太平洋戦争はなかった」
「当時の日本がアメリカに牙をむくことはなかった」
とも言われています。


それほど、零戦は開戦時には「最強に強まっていた戦闘機」だったということです。


つまりこれも堀越二郎の「夢」が、必要以上の性能を産み、
パワーバランス、戦況、戦争のあり方を変えてしまったと考えることができます。
(彼の設計が、軍からの要望スペックを大幅に超えているという描写も、映画の中でありました)

「設計はセンスだ センスは時代をさきがける 技術はそのあとについて来るのだ!」



零戦が無ければ、堀越二郎がいなければ、日本は「眠れる獅子」を起こすこと無く
三国同盟のなかでチビチビとやっていったのかもしれません。

零戦が無ければ、真珠湾攻撃もなく、
アメリカ視点では国内の反戦ムードを覆すきっかけも起こらず、
単に石油の輸出を渋るだけの存在だったかもしれません。

そうなると、戦争の末路は一体どうなっていたか。
空襲は? 原爆は? 無条件降伏は?


堀越二郎がやったことは、是だったのか非だったのか、という事になって来るのです。


「ピラミッドがある世界とピラミッドのない世界どちらがいいか?」みたいなセリフも映画の中でありましたね)
(それでもピラミッドは美しいのです)



つまり、
「軍事兵器を開発してしまった技術者の人生や功績をどう捉えるか」です。


「こんな悪魔の兵器を産み出して戦争に加担しやがって」と捉えるか
「すげーの作ってくれたな 御先祖様マンセー」と捉えるか


そのどっちも多分違うのです。


この映画は戦争を肯定も否定もしていません。
軍事技術の開発を肯定も否定もしていません。



そのどちらでもない、もっと先の、
そして現代を生きる全ての人に繋がるところに落とし込んでいるのが、この映画だと思うのです。



このことは、映画を見れば分かります。

ていうか、映画見る前に貼ってあるポスターにも、そのヒントは書いてあります。

この映画は戦争を肯定もしていないし、自虐史観もしていない。
また、堀越二郎のしたことを
「本当は軍事技術と関係ない飛行機を作りたかった」などと擁護するつもりもないと、ハッキリ書かれています。


そ れ な の に


この映画のことを
「戦争に突き進むことを肯定している」だとか
「軍事技術の開発を美化してる」だとか 言ってみたり

逆に、
「零戦の活躍が書かれてない」だとか
「戦争を間違いだったみたいに描くな」だとか 言ってみたり・・・。



要は、右っぽい意見も左っぽい意見も間違っているのです。


中道です。
フラットです。


そしてこんなことは全て、映画を観る前の前提の前提の話です。


一体なんのためにポスターに企画書を全文掲載したのか。
ちゃんと読んでいないでギャーギャー言っている人が多すぎるようです。



ここで宮崎駿本人についても語らなければならないだろうか。

(でもこういうことを書くと「お前が宮崎駿の一体何を知ってるんだよ!」という事にしかならないんだよなぁ)


宮崎駿自体は、まぁ、言ってしまうと、左でしょうか。
(原発にも反対しています)
("愛国左派"という感じです)


「戦争観」自体は、馬鹿な戦争をしたもんだと思っているでしょう。

でも、宮崎駿は超弩級のミリオタなのです。


そういう矛盾を抱えている人なのです。


でも、ハッキリ言えるのは
そういう「戦争は正しかった」とか「戦争は間違っていた」みたいな
単純なテーマを作品に盛り込むことだけは絶対にしない人なのです。

そんなスローガンならA4用紙に書いて貼っておけばいいと思っている人なのです。

そういう思想やらイデオロギーを作品に混ぜ込むのは大っ嫌いな人なのです。
(だから、ナウシカも「自然を大切に」なんて話じゃないんだよ、本当は)

そういう、宮崎駿の意識のようなものに少しでも触れてきた人なら、この映画を見て
「駿は左翼だからこういうことを言わせてるんだろう」とか
「駿も右傾化してしまったか」みたいな、
そんな感想は出ない筈なのです。



まぁそんな感じの「前提」でした。

改めて言う必要の無いほどの、当たり前の話です。

でも、この、当たり前のことが分かってないでギャーギャー喚いている人が多すぎる。

だから自分もギャーギャー喚いてしまうのです。



この映画の恋愛パートを捕まえて
「火垂るの墓」かと思ったら「耳を澄ませば」だった。
みたいな事をいう人がいます。


自分はそれも、なんか違うよなぁと思うのです。



そもそも自分は、耳すまをみて「死にたい!」とか嬉しそうに連呼している人達のことを信じていません。

それは、リア充に限って「リア充爆発しろ!」と言っている現象に似ているからです。
(ワタモテ参照)


本当の非リアは、そんなことすら感じないと思うのです。

「憧れ」というのは
「自分もそのようになれるかも」「自分もああなれたらいいなぁ」と感じることから生まれます。

つまり、心の何処かで自分にもありえたことだと思っているからこそ「憧れる」のです。


あまりにも自分の人生とかけ離れていた場合、「憧れ」というのは起こりません。
ただただ、
「そういう人生がもしあったとするのならば、お幸せに」と感じるだけだと思うのです。


自分が「風立ちぬ」の恋愛パートで感じたのも、そのような感じです。
身分の高いイケメンと美女の、運命的な出会いと再会です。
そして彼らの将来は明るい未来ではありません。


ただただ、応援するしかないではないか。



この映画に、「紅の豚」を期待して、勝手にガッカリしている人達もよく見ます。

「零戦が全然でてこなかったー!活躍しなかった―!思ってたのとちが~う!」とか言っている人も居ます。

なんちゃってミリオタな人に多いと思います。


確かにこの映画でメインに設計されていたのは、零戦ではありません。
「七試艦上戦闘機」と「九試単座戦闘機」です。
零戦が出てくるのは、本当に、ラストにちょっとだけです。


だがそれがなんだというのか。


今まで言ってきたような話が理解出来れば、
宮崎駿がこの映画で零戦が無双する描写なんか絶対に描くわけがないって分かりそうなもんです。
紅の豚とはワケが違います。



イカンイカン。

そんな感じでいちいち馬鹿なレビューを相手していても仕方がないので、
ちゃんと自分の駄感想とかを書いていかなければならない。



この映画のテーマを本気で分解するなら
「夢」「仕事」「エゴ」という3つのキーワードに落ち着くと思う。

この3大要素のせめぎ合いの中で、どう生きていくか、という事に尽きると思う。


で、もう文章が怪しくなってきてることから分かるけど、
こういうテーマについて本気で語ろうとすると、
ちょっと恥ずかしい感じになってしまうのだ。
(そもそも自分はニートである)
(「仕事」とか「夢」については本気では語れない)
(いや、ニートだからこそ本気で語ろうと思えば語れるのだが・・・)


まぁとにかく、このマジなテーマ話については、ちょっと勘弁してほしい。


これは、各自考えてほしい。



いや、でも何となく結論は分かっている。

結局「仕事人は粛々と目の前の仕事をすればよい」ということになってしまうんだろう。

これは、宮崎駿自身が既に色んなとこで語っていると思う。


そして別なところでも不意に目にするテーマでもある気がする。

例えば、「闇金ウシジマくん」のサラリーマンくん編でも、
似たような言葉があった気がする。

(いや、てんでズレたことを言っているかもしれない)



まぁ、難しいことはここらで置いておいて、
作品の見所でもテキトーに並べるほうが健全かもしれない。


ていうか自分は「眼鏡の話」が一番したい。



◆眼鏡の話

この映画は、何が凄いって、眼鏡が凄い。


多分「ベスト眼鏡アニメ映画」だ。 これまでも、これからも。

眼鏡

見れば分かることだけど、このアニメは
眼鏡に強烈な度が入っていて
二郎の顔の輪郭線が、内側に歪んでいるのだ。
 常に。



これがすっっごく良かった。


自分はもう、そのような「眼鏡の有様」を見るだけで、うれしくなる。

更に、偶に主人公が眼鏡を外したり、ズレたりすると、
それだけで主人公の顔が気になってしまう。
物凄い映像効果だと思う。



眼鏡
↑最近、こういう、目にフレームがかからないような、デフォルメした線を引いただけのような、
「記号のようなメガネキャラ」が増えているけど、
「何も分かってねーな―」ということが分かりました。


(というか何だこの絵は)


やはり「アンダーリム」は邪道である。
そういうことが分かりました。


あと、当然だけど
二郎の「近眼へのコンプレックス」の描写も良かったです。

夢のなかでも近眼のままだったり、
だんだん目がよく見えないようになる感じとかね。


眼鏡かくあるべし。



◆キャラクターについて

この映画が最高に気持ちがよいことの理由を考えてみたけど、
やっぱり「登場人物が全員、気持ちの良い人」ってのがあると思う。


本当に皆、良い人ばっかりだよ。


この、悪人が不在なのは何故かってことを考える。


そもそも宮崎駿は、
「悪役を出して、その人間にヘイト集めて、ソイツが殺られてハッピーエンド」みたいな単純なやり方に
飽き飽きしているってのがあるだろう。

だから、分かりやすい悪役というのはもう宮崎アニメには永久に出てこないだろう。 さらばムスカ。



そもそも「悪い人」とは何か。
何故性格が悪くなるのか。何故意地悪になるのか。

それは多分、突き詰めると、「頭が悪い」からだ。「不誠実」だからだ。

そしてそういう人間を出すことは、美しくない。
この映画に相応しくないって、分かる。

そして実際にそういう作品を見てしまうと、
自分のように性格がMAX悪い人間ですら、感化されてしまう。

「悪人が居ない作品ってのも悪くないね」って思ってしまう。
不思議なものである。



それにしてもキャラクターが凄いなと思う。

最強レベルの妹キャラに

最強レベルの病弱お嫁さんキャラに

最強レベルのライバル親友キャラに

最強レベルの理解ある上司キャラ・・・

そして、最強レベルのイケメン天才チートボンボン主人公である。



それにしても天才の生きる姿勢というのは見ていて気持ちがいいね。



◆震災について

ここで震災の話をする。

前に自分は「ホンモノは震災から逃げない」みたいな事を書きました。

で、その時から思っていたけど、
「ホンモノのホンモノ」は逃げるどころか、既に予言めいたことをしてるんだよね。


宮崎駿は、311以前に、ポニョをやっている。

(もちろんこれが本当に予言であるとか、そんなスピリチュアルな事は言わない)

(宮崎駿は「集合的無意識」にチャンネルして作品を作ろうとしている)
(だから宮崎駿の作品は、必然的に「神話的特徴」を持つようになるし、
 そのような神話的作品は、繰り返される歴史のなかで、予言のような効果を発揮してしまうのだと思う)
(だから、原因と結果が違う。 結果的に予言のようにはなるが、予言とはちょっと違うのだ)


↓そして、風立ちぬもまた、神話的解釈が出来る作品になっているのです。
「風立ちぬ 感想と解説」 菜穂子は二郎の良心の象徴 古事記の国産み、神産み
菜穂子はイザナミであり、二郎はイザナギであり、零戦はカグツチであると!


(結局スピリチュアルなこと言ってるじゃねーか)



・・・で、まぁ話がズレたけど、「ポニョ」で津波を扱った宮崎駿が、
この「風立ちぬ」という作品でも、関東大震災という形で再び大災害を扱ってくれたのだから、
やはり自分は確信めいたものを感じてしまったのです。


やはり、ホンモノは震災から逃げない。



◆リアリズムとか現代劇とかについて

そしてまた、これは現代劇なのだなと思いました。


震災後の復旧する世界、
不景気、世界恐慌、
不景気で右傾化していく世界、
「戦後」ではあるけど「戦前」のような張り詰めた感覚・・・


物凄く現状とリンクしているように見えます。


だから他人ごとには思えないし、
昔の人の人生をなぞっているだけには思えない。


ところでこの映画に関して、
「宮崎駿が初めてリアリズムに挑戦した」みたいに言われてるけど、
実は自分はそれがイマイチピンとこない。 (夢のシーンはファンタジーだし)


だって、これまでもずーっと、宮崎駿はリアリズムをやってきたと自分は思うからだ。

(本気でリアルな嘘じゃなきゃ、嘘をつく意味がない)
(だから、架空の化け物だって、リアルな現実の生き物の挙動の観察の上で描いている)
(マジにリアルな大嘘だからこそ、マジなファンタジーになるんだ)


つまり宮崎駿は今まで「ファンタジー」を通して「リアリズム」をやってきたワケだ。

それ系になぞらえて言うなら、風立ちぬは「大正時代」を通して「現代」を描いているんじゃないか。


そんなことを思った。



◆「10年」について

実はこの映画で一番気になったポイントかも知れない。


「創造的人生の持ち時間は10年だ」というセリフの説得力が恐ろしい。恐ろしすぎる。

(宮崎駿のように、72才でこれだけの情熱を見せることが出来る化け物が自分で言ってるので
 逆に説得力がないかもしれない)
(いや、そんな人間がこんなこと言ってるんだぞ? 恐ろしいわ)


まず、物凄く気になってしまうのが
「一体、宮崎駿にとっての10年とは何時だったのか」ということ。
(風立ちぬは、実際、宮崎駿の自伝的なところもある)


一体、いつからいつまでだ??
経歴が凄すぎて、よく分からなくなる。
例えば、「ホルス~未来少年コナン」あたりまでか?


やはり、「10年の終わり」を基準に逆算して考えたくなる。

二郎は自分の10年を「地獄だった」「最後はボロボロだった」と言っている。
「10年の最後」とは、そのようなものなのだ。

宮崎駿にとって一番ボロボロだった時期とは、何時だ?という視点で考えていく。


「~カリ城まで」か? (体力の限界)

「~ナウシカまで」か? (この時、駿43才だよ、全く)

「~ラピュタまで」か?
(ラピュタ製作中に、宮崎駿のお母さんは亡くなっているのだ)
(宮崎アニメの中で、一番モチーフにされているような人物である)

(いや、でも、リアルで堀越二郎が綾子さんを失ったのは30才の時だったか)


「~トトロ」か?
(やりたいこと全部やっちまって、次の魔女宅で初めて興行的に成功する、という流れ)

もののけか?千尋か?ポニョか??

風立ちぬか???

もう本当に、経歴が凄まじすぎてよく分からなくなってくる。


いずれにせよ、
「凄すぎて後継が現れないから、ずーっと現役で、前線で戦わなくちゃいけない」というのは
まさに零戦と被るところである。

宮崎駿=零戦! これね。

(一体何と戦っているのやら  アメリカ? ラセター?)



まぁいい。宮崎駿の10年を考えるのは置いておこう。


面白いのは、このセリフを庵野監督に言わせていることだ。
「庵野監督にとっての10年」を考えるのも、やはり面白い。


これもまた色々考えられるが、
やっぱり「旧エヴァの最後」が、「10年の終わり」だろう。 (~35才まで)
ホントにその頃の庵野監督は心身共にボロボロだったろう。


「エヴァで才能が枯渇した」とか、よく言われるおひとである。

それでも結局、庵野監督は、今でもエヴァを引きずり続けるしかないのだ。
(つまり庵野監督にとっての零戦は、エヴァか)




・・・まぁとにかく宮崎駿にせよ庵野監督にせよ、
「10年を終えてしまった人達」であるのは確かだ。 (多分)


でも、彼らの中にまだ風が吹いているのも、確かだろう。

風が吹いているのなら、生き続けなければならない。


(これからも作品を作り続けてくだされ)



で、自分の人生に関連付けても考えてしまうね。

自分にも「10年」とやらは来るのだろうか? (自意識過剰)

その10年を、どこに持ってくるべきだろうか?


ま、まだ自分は本気出してないから・・・
今は下準備してるつもりだから・・・
充電してるだけだから・・・


そう考えるのは楽ではある。

だが自分は10年を何も無いまま、すり潰しているのかも知れない。

(このブログも、始めてはや5年くらいになるよ)
(この5年で何があった?)
(あと5年以内になにか結果が出せるのか?)
(そんな気はしない)



でも何だかんだで、本当にまだ下準備でいいんじゃないか、という気もする。

堀越二郎の10年の終わりは42才だった。

30までに準備完了してて、そこから10年、死ぬ気で走り抜けて、何か一つ生み出す。 
そういう人生。


なら自分はまだ準備期間でいい。
(でも「30になったら自殺する」とか、普通のニートみたいなことを本気で考えてた時期もあったんだけどなぁ)



◆絵の話

普通のコトを言おう。

当然だけど「絵」がすごかった。

何なのだろう、この迫力は。

全てのカットから圧倒されるようなパワーを感じた。

どっからあんなパワーが出てくるんだろう。

やっぱ絵コンテをフルカラーで描くとか、信じられないようなキチガイじみたことしてるからだろうか。


例え自分がこれまで抜かしてきたグダグダした文章に全てに納得できなかったとしても、
「絵が凄かった」というただそれだけの事実は伝わると思うのだがね。



で、これだけ書いてもまだ全然書き足りない気がする。


・本庄の話

・シベリアの話

・音響の話 (機械のエンジン音とかが全部声) (やどさがしの話)

・CV:庵野秀明の話

・宮崎駿が声優を使わないことについて

・ヒロインのエゴイズムについて

・感動できなかったとか言う人間について


・・・などなど、
マジで書き足りない。




本当に見どころが多すぎる映画だと思う。

そしてこれからも、なにか経験を積めば積むほど、味わいの変化する作品だろう。

いろんな人の感想をみても、本当に千差万別である。

こういう見所満載の映画というのは、ある意味「観た本人を現す鏡」のようなモノかも知れない。




畜生、原作が読みたくなる。
(しかし、ある意味、原作が何種類ある作品なのだ? この作品は?)

とにかく「モデルグラフィックス」に載ってた原作漫画が読みたいよ、自分は。

(だがそのためにはバックナンバーをかき集めねばならない・・・高すぎる・・・)

とりあえず、あらすじで我慢するのだ。

映画「風立ちぬ」の原作紹介 -漫画「風立ちぬ 妄想カムバック」-


関連記事
[ 2013/08/09 21:38 ] 痛感想文系 | TB(0) | CM(8)
『風立ちぬ』は観てないんだけど
 佐貫 亦男『設計からの発想 ― 比較設計学のすすめ』(講談社ブルーバックス、一九七九)より引用(一部改変あり)。

 『ゼロ戦と隼はほとんど同じ寸法、同じ重量、同じエンジンといってよい。』
 『これだけのことを心得て、ゼロ戦と隼の正面図をじっと眺めてみよう。できたら影絵にしたもの同士を見比べるとよい。これで判断できたらそれは専門家に近い。』
『 ところが、平面図をくらべてゼロ戦と隼との区別ができなかったら、それはズブの素人である。まず、だれにでもわかることは、ゼロ戦の主翼は前縁と後縁ともに翼端に向かってテーパーし、隼は前縁が導体軸に直角な直線となり、後縁だけが前方に傾斜している。これは隼の設計主任者・小山 悌(やすし)技師の持論で、このようにすると主翼上面で付根から翼端に向かって流れる気流がなくなり、翼端に近い断面の上面気流が剥がれ難くなる。その結果、翼端失速の発生が遅れ、補助翼の利きがよいという。
 翼端失速は主翼の捩り下げによっても防止できるから、ゼロ戦の主任設計者・堀越 二郎技師は隼の主翼平面形に追従しなかった。』
『 側面図ではやはりゼロ戦と隼の区別は明瞭である。ゼロ戦は大型のかわりよく流線形とした操縦席風防をつけ、隼では短く終わらせて細い胴体に載せている。』
『 飛行機の垂直尾翼はもっとも設計者がデザイン的感覚を発揮できる部分である。(以下略)』
『 以上総合して、正面図ではゼロ戦も隼もほとんど区別できない。いいかえると、ここでは卓越するのは設計だけで、デザインの出る幕はない。目的が決まり、エンジンが決まったら、正面図の形と寸法は決定されるといってよい。』
『 ところが平面図と側面図は著しい差があり、多少でも形の判定ができる人には明らかに区別できる。その差はいずれも説明できるもので、単なるデザインではない。飛行機の形は性能あるいは強度と密接に関係があり、しかも、その関係のしかたは複雑である。』
 『前に述べたとおり、学校の優等生がかならずしもよい設計者になれるとは限らない。もちろん、このような能力をもった優等生はすぐれた設計者になり得る。ゼロ戦の堀越 二郎さんは一高東大の優等生であったし、小山 悌さんは第二次世界大戦後に林学博士となった優秀な人物である。ただし、単なる秀才が優秀な設計者になる保証はない。』
『 ゼロ戦と隼の平面図と側面図の差に、二人のすぐれた設計者の能力と風格を見る。二人とも、無数の組合わせ形態の仲から、経験と判断によってそれぞれ一個をつまみ上げたのである。いいかえると、平面図と側面図に現れる形態は、目的とエンジンが与えられても単純に決定できないものであった。』
『 このことから、すべてが計算(実験も含んで)によって決定されると思われがちな飛行機の設計にも、大きくデザイン的要素があることを知る。』
 『限界までの能力を積上げた両設計者が、最後に競り合うときは、もはや人間性だけが発言権を持つように思われる。』

 宮崎は大衆受けを狙ってファンタジーに逃げていないか?と思う。カプロニの機体なんて、航空機マニアでも めったに思い出せねぇぞ。
[ 2013/08/12 16:22 ] [ 編集 ]
Re: 『風立ちぬ』は観てないんだけど
> Mr.Moto さん


ふむむ。
なにやら難しいですが。


自分もゼロ戦と隼は見比べられると思います。 実際イメググれば。

>ゼロ戦の主翼は前縁と後縁ともに翼端に向かってテーパーし、隼は前縁が導体軸に直角な直線となり、後縁だけが前方に傾斜している。

↑でも実際のところ、ここだけしか見てないと思いますがw
自分はここが見分ける鍵になっていますね。


で、
上から見たり横から見ればすぐに違いが分かるゼロ戦と隼ですが、
正面から見ると全く分からんということですね。



今はどんな感じで飛行機の設計とかしてるんでしょうねえ
遺伝的アルゴリズムとかでシミュレーションして最適化してるって感じでしょうか。

そして、当時はそんなものもないのにどうやって設計していたのでしょうね。


>『 ゼロ戦と隼の平面図と側面図の差に、二人のすぐれた設計者の能力と風格を見る。二人とも、無数の組合わせ形態の仲から、経験と判断によってそれぞれ一個をつまみ上げたのである。いいかえると、平面図と側面図に現れる形態は、目的とエンジンが与えられても単純に決定できないものであった。』
>『 このことから、すべてが計算(実験も含んで)によって決定されると思われがちな飛行機の設計にも、大きくデザイン的要素があることを知る。』
>『限界までの能力を積上げた両設計者が、最後に競り合うときは、もはや人間性だけが発言権を持つように思われる。』


・・・ということになるんでしょうね。


結局、最後のこの部分が、「センス」という言葉になってしまうのはないでしょうか。





ところで、Mr.Motoさんのブログ見てきたのですが、「風立ちぬ」ぼろくそでしたねw

でも、普通の人がケチ付けるようなところとは全然違う観点でケチ付けてたので面白かったですよ。

自分も全く見えていなかった部分ばかりです。

[ 2013/08/16 16:59 ] [ 編集 ]
Re^2:『風立ちぬ』は観てないんだけど
 「ヒットさせなければならない重圧」みたいなものは、ゴールデンタイムのテレビ番組の製作担当者が言えばいいのであって、(TVアニメに対する「劇場版アニメ」ではなく)劇場用アニメの作り手が言うべきこっちゃないと思うんだよね。「そんな作品に使う金があったらおれにやらせろ」という作り手は大勢いる(専門学校にアニメーター養成講座があって、アジア各国から生徒が押しかけてきたりする時代なんだから)わけで、「おれだったら、もっと安く、もっと面白いものを作ってやる」というヒトだっているはずだと思う。

 だけど、そこで「“宮崎アニメ”だから売れる」みたいなことは(少なくとも宮崎に憧れてアニメの世界を目指した若者に)言わせちゃいけないわけで、「あぁ、これは“宮崎アニメ”だからできるんだな」と言わせられるような、そういう宿命的なものをクリアするような作品を作んなきゃいけないと思うんだよ。
 少なくとも、手塚治虫を真っ向から否定した(だいぶ昔のことなので覚えている人は少ないと思うけれど、手塚さんが歿したときの宮崎駿の発言は衝撃的だった)宮崎であるならば。

 宮崎は、「けっきょく、あんたが否定した手塚治虫や松本零士と同じことをやってんじゃないの?」みたいな発言に立ちむかうだけの体力が失せてきたんじゃないかと思うんだよ。まぁ、確かに「セルの枚数をケチって工数を減らす」みたいな貧乏臭いアニメはいまさら観たくねぇ、というヒトはいると思うのだが。とはいえ、欧米というアキレスを追いかける亀だった日本の航空技術者にしてみれば、作中の人物に「我々は亀を追いかけるアキレスだ」と言わしめるような奴は、ウォルト・ディズニーを追いかけた日本のアニメ製作者の気持がわかっているのかどうかという話になる。

 「アテレコか、プレスコか?」みたいな議論(TVアニメのように作品世界がすでに確定しているとか、自分の脳内に完全に作品が出来上がっているならアテレコが正解だろうし、演劇的なドラマ性を活かそうとすれば“ラジオドラマのアニメ化”的にプレスコを採用するのがセオリーだと思う)もあると思う。とはいえ、だったらドラマ的な部分なら紙芝居的に手を抜いて、CGでできない「どうしても人間が描かないとダメ」なトコにアニメーターの技量を突っこむとかいったコトはできなかったのか?と思うのだ(声優に素人を持ってくるのはともかくも、「そこでその人選かよ!」とは思う)。そのあたりの「プロデューサー的な役割」というのが果たせていないと思うんだよね。

 で、よりにもよって零戦ネタ(そう言っていいと思う。なにせ主人公が「堀越二郎」なのだから)で、「(軍部の)プロデュース能力の欠如で(技術者や兵士のような)若い才能を使い潰した」みたいな出来のアニメはねぇだろう、と思う。資源も技術も経験もない中で、列強とケンカしなきゃならなかった航空技術者の心の中を思えば、である。

 確かに作品としての出来は悪くないと思う。商業的にもヒットした(らしい)のだから、作り手としての責任も果たしたのだろうとも思う。

 だけど、それは「日本のアニメーション」にとって幸せなことだったんだろうか?

 そこにおれは怒っているのである。録画画像を ひとコマごとに送ってチェックし、アニメーターの技に「すっげー!」と感嘆するような作品っちゅーのが、おれの基準線なのだから。
[ 2013/08/22 22:23 ] [ 編集 ]
Re: Re^2:『風立ちぬ』は観てないんだけど
> Mr.Moto さん


なんか色々と難しいです。


>  だけど、そこで「“宮崎アニメ”だから売れる」みたいなことは(少なくとも宮崎に憧れてアニメの世界を目指した若者に)言わせちゃいけないわけで、「あぁ、これは“宮崎アニメ”だからできるんだな」と言わせられるような、そういう宿命的なものをクリアするような作品を作んなきゃいけないと思うんだよ。



「“宮崎アニメ”だから売れる」とか言っちゃう若者というのは、
宮崎アニメはネームバリューで売れてるモンだと決めつけている、
そういう権威主義的な若者ってことでしょうか。

自分的には、そんなのは、そういうことを言っちゃう若者自身の問題だと思うのですよね。


自分は、ジブリはジブリにしか作れない作品を作り続けてると思うんですけどねぇ。
ずーっと一貫して、リミテッドアニメの逆を行っていると思うのですけど。

だから、その辺の価値を見出さずに名前で売れてると決めつけている若者は、そいつの目が悪いと思うのです。



そして「クリア」できているかどうか。

これは、見た人がそれぞれ決めることだと思うのですよ。
自分は「クリアできている」と思います。 ポニョだってそうです。
それじゃーいかんのでしょうか。



>  少なくとも、手塚治虫を真っ向から否定した(だいぶ昔のことなので覚えている人は少ないと思うけれど、手塚さんが歿したときの宮崎駿の発言は衝撃的だった)宮崎であるならば。


「漫画家としては多大な影響受けたけどアニメプロデューサーとしては最悪なことしてくれた」的なやつでしょうか。

それはずーっと言っているし、今でもそれを貫いていると思うんですけどね。




>  宮崎は、「けっきょく、あんたが否定した手塚治虫や松本零士と同じことをやってんじゃないの?」みたいな発言に立ちむかうだけの体力が失せてきたんじゃないかと思うんだよ。

> まぁ、確かに「セルの枚数をケチって工数を減らす」みたいな貧乏臭いアニメはいまさら観たくねぇ、というヒトはいると思うのだが。


この2つの繋がりがよく分からんです。

手塚=リミテッドアニメ
宮崎=リッチなアニメ
みたいな対立構図かと思ってたのですが。


それとも「アニメーターを馬車馬みたいに働かせてる」という点で共通させているんでしょうか?

http://31.media.tumblr.com/23312a826c5c47460b59d5b34e1fd723/tumblr_mqfuveDLxb1qa23ffo2_1280.jpg

この辺の問題は、本人が一番よく分かってるし、常に頭を悩ませていると思うんですけどねぇ。



>  「アテレコか、プレスコか?」みたいな議論(TVアニメのように作品世界がすでに確定しているとか、自分の脳内に完全に作品が出来上がっているならアテレコが正解だろうし、演劇的なドラマ性を活かそうとすれば“ラジオドラマのアニメ化”的にプレスコを採用するのがセオリーだと思う)もあると思う。とはいえ、だったらドラマ的な部分なら紙芝居的に手を抜いて、CGでできない「どうしても人間が描かないとダメ」なトコにアニメーターの技量を突っこむとかいったコトはできなかったのか?と思うのだ(声優に素人を持ってくるのはともかくも、「そこでその人選かよ!」とは思う)。そのあたりの「プロデューサー的な役割」というのが果たせていないと思うんだよね。


いわゆる「何故宮崎アニメは声優を使わないのか」という認識の話になりますかね。

つまり作品にとってプラスにならないような「お遊び的チョイス」をしている、という認識なのでしょうか。
それも違うと思うんですけどね。



宮崎駿が本格的に声優を使わなくなったのは、
もののけ姫からかなぁ、と思っています。

「もののけ姫はこうして生まれた」を見れば分かるけど、
かつてナウシカ役だった島本須美さん(声優業)の収録が、いっちばんグダグダだったんですよね。

そして甲六の人のアドリブに本当に感心しています。


声優の木で鼻をくくったような演技がくそつまんなくって、
逆に素人から引き出した素朴な演技の方が作品にとって良いのではないか。
そして声優業として固まりきってしまった部分を一度とっぱらうのがどれだけ面倒か。

・・・そういうことを考えた結果、ジブリは声優から離れていったんだと思います。


で、糸井重里とか、庵野秀明とかだって、結果的に良かったんじゃないですか?


「プロデューサーの役割」、果たせてないのでしょうか?
分からんです。




>  で、よりにもよって零戦ネタ(そう言っていいと思う。なにせ主人公が「堀越二郎」なのだから)で、「(軍部の)プロデュース能力の欠如で(技術者や兵士のような)若い才能を使い潰した」みたいな出来のアニメはねぇだろう、と思う。資源も技術も経験もない中で、列強とケンカしなきゃならなかった航空技術者の心の中を思えば、である。


これ一番よく分からんです。
いやなんかもう、ビックリするくらい分からんです。

前提の一つ一つが自分の認識と何一つ合わないので、なんで分からないか分からないくらい分からないです。





> そこにおれは怒っているのである。録画画像を ひとコマごとに送ってチェックし、アニメーターの技に「すっげー!」と感嘆するような作品っちゅーのが、おれの基準線なのだから。


その基準線だと
Mr.Motoさんにとって「アリ」になるアニメ映画ってどういう作品になるんでしょうか?
逆に気になります。

「GHOST IN THE SHELL」とか「イノセンス」とか「AKIRA」とか、その辺でしょうか?

それともディズニーの作品を挙げるのでしょうか。
(それはダメですよね。上の話で分かるけど)



つまり、ほとんどの日本のアニメ映画はクリアできないと思うんですけどね。


(逆にそのような厳しい基準線であると自覚しているならば、ギャーギャー否定することでもないと思うのですが)


(というか、宮崎アニメをコマ送りして「すっげー!」と思わないのは、それはそれでどうなのでしょう)
(本当にポニョのメイキングか、もののけ姫のメイキングを見て欲しいものです)



(なんちゃって作画厨御用達のような作品つったらなんだろう?)


全然関係ないけど、
今敏監督が亡くなって3年ですね。

今敏作品の、ロトスコでないのにロトスコのように生々しいアニメーションは本当に凄かったかもしれません。



[ 2013/08/25 22:19 ] [ 編集 ]
遅ればせながら風立ちぬを観てきました
>天才のもたらす影響について
堀越次郎は劇中の中ではカプローニとの会話で自分が人殺しに加担しているところは自覚しているようでした
そこで非常に疑問だったのが自分が殺人に加担していることに対して葛藤する描写が全く無かった事です
夢の為と言えば納得できなくも無いですが大衆向けであるジブリ映画に平然と殺人をする人物を登場させるものなのかと
尺の都合とかみたいなものも会ったのかと思うのかもしれませんので下衆の勘繰りになるかもしれませんが僕には夢と言うものを美化しすぎているように思えます
地に咲く花に気遣えば真っ直ぐ夢に向かって突き進むことはできません
一生悔やみ続けて生きろとは言いませんが、せめて少しでも踏まれ、散ってゆく花に思いを馳せるような精神は必要だと思うのです
そこを描写しないことにはメリットを語ってデメリットを語らず見たいな物になります
では何故そこを描写を描写しなかったのかと言うとこの映画は夢は素晴らしいという子供たちへのメッセージだからなんだと思います
あえてそういうところを描かず夢の美しい所だけを見せることで(一種の騙し見たいなもんですが)少年少女に大志を抱かす原動力になるのではないでしょうか
ウジウジした場面ばかりだと「え・・・夢ってそんな良いもんでもなくね・・・」となるでしょうし下手すればエヴァのように極めて「不健全」な物になってしまうかもしれません(そういう所が宮崎監督の言う手抜きなんでしょうか)

以上「僕がやっていることは正しいのかな・・・グスングスン」となってなっている所をヒロインに慰められるシーンが観たかっただけの人間の戯言でした

>中道主義について
良いかもしれないし悪いかもしれない、この言葉は最もですがちょっと違うと言わせてください
確かに物事を判断する上でメリットデメリットを洗い出し天秤に掛けると言うのは大切ですがどう足掻いても最終的に決めなければ成らないという制約があります
ダムを建築すると住居を失う人が出る、でもやる
TPPに入ると農家の野菜が売れなくなる、でもやる
山を削って海を埋め立てると・・・etc
(特に政治ネタを引っ張ってきたかったわけではないのですが判断をしなければ成らないと言う点に置いてが顕著なので)
賛成するにも反対するにもメリットでデリットはあります(どちらかにメリットしかなくもう片方にデメリットしかなければ議論の余地はありませんね)
つまり選択すると言うことはデメリットを受け入れると言うことと同義なのです(偏っている事を受け入れると言うものでしょうか、言ってみれば世の中ほとんどの物が偏っています)
そういう観点から見ると思想を持たない(何らかの思想に基づいたものではありませんと言う作品のような)無思想と言う思想はニートやクリエイター等の判断に迫られない人間に与えられた特権なのかもしれません
[ 2013/09/10 23:23 ] [ 編集 ]
Re: 遅ればせながら風立ちぬを観てきました
> 名無し さん


> そこで非常に疑問だったのが自分が殺人に加担していることに対して葛藤する描写が全く無かった事です
> 夢の為と言えば納得できなくも無いですが大衆向けであるジブリ映画に平然と殺人をする人物を登場させるものなのかと
> 尺の都合とかみたいなものも会ったのかと思うのかもしれませんので下衆の勘繰りになるかもしれませんが僕には夢と言うものを美化しすぎているように思えます


「平然と殺人をする人物」呼ばわりはちょっと酷いかなと思いましたが、言いたいことはよく分かります。


あの当時、飛行機の設計技師になるということが
戦闘機の開発に携わることとイコールになるのは、どうしたって仕方がないことだったと思います。
優秀であればあるほど当然です。

堀越二郎が自分のしたいこと(美しい飛行機を作るという夢を実現させること)を叶えるためには、
どうやったってあの情勢の中では「戦闘機のデザイン」という仕事の中で実現するしかなかったということも
わかってもらえるかと思います。

ああいう時代の中で堀越二郎という天才がいたこと
天才がああいう時代に生まれてしまったこと。


お互いがお互いを利用しながら、自分のやりたいことをやっただけ、ということなのかも知れません。


そこんところで
「自分が目指す夢がキレイ事では済まない」ということに、葛藤すべきか否か。
これは結局、作り手側にせよ受け手側にせよ「好み」ということになってしまうような気もします。


どうなんでしょうね。


例えば自分は「MGS1」のオタコンのことを思い出したりもしました。

オタコンは、自分が開発したメタルギアREXが、核兵器であることを自覚しておりませんでした。
後になってから、自分が騙され利用されていたことを嘆くわけです。
技術者はいつの時代だって意図せぬままに軍事技術として利用されてしまうのだと。

あらためて今、オタコンと堀越二郎を比べると
やはり自分は「オタコンの方がダサいな」と感じてしまうわけです。
主人公の格ではないかな、と。

自分が今やっていることに自覚を持ちながら
イバラの道を突き進む主人公のほうが、かっこよくはありませんか。
(まぁそれが美化なのかもしれませんが)


> 以上「僕がやっていることは正しいのかな・・・グスングスン」となってなっている所をヒロインに慰められるシーンが観たかっただけの人間の戯言でした

やはり、そういう主人公は、宮崎駿は描きたくないでしょうねぇw
男主人公は背筋伸ばしてないと引っ叩きたくなるのでしょう。

そして何より、言い訳がましくしたくなかったのでしょうね。
「本当は戦争の兵器なんてつくりたくなかったんだよ~」みたいなことをいう人物にはしたくなかったと。

まぁ全部妄想なのですが。



>一生悔やみ続けて生きろとは言いませんが、せめて少しでも踏まれ、散ってゆく花に思いを馳せるような精神は必要だと思うのです
>そこを描写しないことにはメリットを語ってデメリットを語らず見たいな物になります


そのような描写が完全に無かったわけでもないと思うのですけどね。


出撃する零戦を見送りながら
「一機も戻って来ませんでした・・・」とつぶやくシーン。

それだけで、十分伝わるような気もするのですが。



とにかく自分は、この堀越二郎像だからこそ、この映画が好きだったのでしょう。
[ 2013/09/12 20:38 ] [ 編集 ]
先日風立ちぬを見て、今日ふらっとここに立ち寄ったので一筆。

この映画を「戦争物」としてあれこれ議論してる人たちが滑稽だ、というのは私もほぼ同意見ですね。
私は主さんのように宮崎駿に対する知識や戦争に関する知識といった「前提」となるものを何一つ持たないまま観た(我ながら酷い無知っぷりだ(笑))のですが、この映画の描く軸は「船越二郎の物語」だと感じました。
彼は技術者でもあり、夢追い人でもあり、一人の青年でもある。
そんな彼が見てきた世界をいかに『忠実に』描くか、それを目指して作られた作品だと。
登場人物が見せる感情や思想も、その登場人物自身が抱くものであり、そこに制作者のフィルターという「不純物」を挟まぬよう尽力されたのだと、そう伝わってくる映画でした。

それにしても、船越二郎さんの人生は「激動」なんてありふれた言葉では表せない道だったんですね…。
前述の通り、全く前知識がない状態で見たためにとても衝撃的でした。
それでも『こういう人生があったのだ』と奇妙な実体感を感じながら見れたのは、作中の至る所に示された細かな人物・時代背景の描写があってこそなんでしょうね。

船越二郎さん本人の実際の思いはわかりませんが、作中の「二郎さん」は物凄く不器用な方でしたね。
カプローニさんの問いに真っ直ぐ答えたときから、彼の「夢」は現実のものとなる。
『戦争は嫌だ』と思いながらそれに手を貸す矛盾も、愛する妻に寄り添えない歯がゆさも、最後に愛したもの全てが遠くに行ってしまっても。
襲い掛かる苦難全てを抱えても、それでも夢に向かって進まねばならない。
そうして生きなければいけない。
『生きねば。』
……映画のキャッチコピーがこれほどストンと腑に落ちることは初めてだったかもしれません。
おそらく、「風立ちぬ」は宮崎監督が描きたいと思った物語をそのまま形に出来た、そんな作品なのでしょう。
見当はずれな推測かもしれませんが、少なくともこの映画を観終わった私には、そう感じられました。

……うん、書いてて思ったのですが、この作品の批評を書くには経験も知識も何もかも全く足りないです、私。
ありきたりではありますが、それぐらい『深い』作品だったと振り返って思います。
正直主さんが羨ましい。眼鏡の「歪み」の件とか全然気づかなかったですよこんちくしょう!(苦笑)
じっくり見てたつもりだったのに、やっぱり節穴ですねぇこの目は。
もっと多くの視点を持った後、もう一度観てみたい。
そんな作品だった、という感想で締めくくらせていただきます。
長文&駄文、失礼いたしました。
[ 2013/10/10 15:49 ] [ 編集 ]
コメ返信
> 名無し さん


> 先日風立ちぬを見て、今日ふらっとここに立ち寄ったので一筆。

どうもです。
映画を観た機会に読んでくれたなら
こんな文章を書いた甲斐があったというものです。


> 私は主さんのように宮崎駿に対する知識や戦争に関する知識といった「前提」となるものを何一つ持たないまま観た(我ながら酷い無知っぷりだ(笑))のですが、この映画の描く軸は「船越二郎の物語」だと感じました。

> ……うん、書いてて思ったのですが、この作品の批評を書くには経験も知識も何もかも全く足りないです、私。
> ありきたりではありますが、それぐらい『深い』作品だったと振り返って思います。
> 正直主さんが羨ましい。眼鏡の「歪み」の件とか全然気づかなかったですよこんちくしょう!(苦笑)
> じっくり見てたつもりだったのに、やっぱり節穴ですねぇこの目は。
> もっと多くの視点を持った後、もう一度観てみたい。



自分も全然大したことは無いと思うのですが、
まぁこういう「前知識」というモノは、重くなればなるほど
「バイアス」「色眼鏡」「思想の贅肉」となるかも知れませんからね。

自分は多分、「ナウシカだけでもう宮崎駿の創作物は全肯定」みたいなレベルで好きなだけかも知れません。
だから自分の視点など怪しいものです。


戦争や宮崎駿に対する前知識なしの方こそが、一番フラットにこの作品を見れたのではないでしょうか。
(戦争観がちょっとでも左右にぶれていると、この映画の話はそういう所に行ってしまいますからね)


という訳なので、もっとご自分のファーストインプレッションに自信を持ってよいと思いますよ。


この映画は
「一個人の夢を追う姿」に強烈な何かを感じとれば、それで良いと思うのです。
本当に自分は、この映画をみて背筋が伸びるような思いをしました。




あと最後に「眼鏡」の話ですが、
「二郎の眼鏡に歪みまで描かれている」ということは、そのこと自体を認識していなくても
きっと何か、眼鏡の描写に他のアニメにはない「凄み」を感じたと思うのですが、どうでしょうか。


表現というのはそんなものだと思っています。
どこがどう凄いか、ハッキリ頭で認識していなくても、
そこに作り手のコダワリがあれば、見る側は何か感じ取っていると思っているのです。


自分はそういうことだと思っているのです。
絵に関しても、内容に関しても。
きっと皆、何か感じ取っているはずなのです。

[ 2013/10/12 15:22 ] [ 編集 ]
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