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最悪の不幸について


やっぱり自分の行動原理って「恥」なんだと思う。
ひたすら、生きてて恥ずかしい。


ブログも、
恥ずかしい文章を書いたから、それを流したくって、また文章を書く。

で、その文章がまた恥ずかしい内容だから、また書く。 このループになっている。
完全に「星の王子さま」の「呑み助の星」と同じである。

「ブログ書くのが、はずかしいんだよ」



で、今日も今日とて、どうしようもない糞文章を撒き散らす。

ちょっと、色んな意味で「最悪」を狙ってみようかと考えてみる。



 

最悪についての有象無象

ムカつくことばっかりである。

本当に腹が立つ。 自尊心・自己肯定感は常にズタボロ品切れである。 
本当に「恥」と「怒り」だけの感覚で生きている。


人間、そういう状況だとどんなことを考えるようになるか。


自分はよく「最悪とは何か」ということを考える。


例えばその中でも「この世で一番不幸な人間はどんな人間か」という疑問。


ヴェーバー‐フェヒナーの法則

「幸不幸の数値化なんて出来ない以上そんな事は决められない」と混ぜっ返すことは簡単だけど、

やっぱりアンネ・フランクの人生について考えたり、「夜と霧」の作者の人生について考えたりすると、
自分程度の糞人生など、全く不幸ではないと確信出来るようになる。 

(せいぜい「小規模の失敗」ってやつだ)
(まぁそんな確信に何の意味もないことは分かっているが)


とにかく、「圧倒的な不幸」を前にすれば、
ある人間とある人間の幸不幸の比較、人生の比較、ランク付けは、なんだかんだで可能であろうということ。


そのような圧倒的事実を前にすれば、
「人それぞれの人生~」だとか
「人生山あり谷あり~」だとか
「人生はプラスとマイナスで帳尻が合うようにできてるんだよ~」みたいなバカ話は、全て吹き飛ぶ。


それにしても、「この世で一番不幸な人間はどんな人間か~」みたいな疑問でググった結果、
でてくるヤフー知恵袋とかOKWaveの「答え」など、 自分にとっては全く満足が行く答えになっていない。

「ゴッホが一番不幸な人間」だとか、到底納得がいかない。


ていうか、自分に言わせれば
アンネ・フランクとか、アウシュヴィッツって死んだ人とかですら、多分
本当の「一番不幸な人ランキング」で言えば、大した上位にも入ってこないと思う。


「夜と霧」でも分かることだけど、
アレくらいの極限状況でも、人間は自分の心を「防御」する事ができる。
感動の鈍麻、無感覚、無反応、何も感じない心理状態に自らを置くことで、その状況を耐えぬくことが出来る。

だからこそ、実際に「夜と霧」の著者はアウシュヴィッツを生き残れたワケだ。


そういうことを考えていくと、
自分の考える「究極の不幸」というのはもっと別種の人生を送ってきた人のような気がする。

・アウシュヴィッツだとか
ポルポト政権下の悲劇だとか
・どっかのカニバリズムクラスの大飢饉だとか
・地震、雷、火事、親父だとか
・・・
その程度の「降りかかった災難」レベルの不幸は、多分、人間は耐えられるし、
例え結果的に餓死したり、ショック死したりしたとしても、多分「心に負ったダメージ」は、ソレほどのことではない。

となると
それ以上の不幸はどんなモノか?ということになってくる。

死ぬに死ねないような状況、発狂するに発狂できないような状況に置かれて、
細心の注意の中で、拷問を受け続けたような人間だと思う。


では、人類史上で最も過酷な拷問を受け続けた人間は、誰だっただろう?
そんなことを考えるようになる。


例えば「角田美代子」がやったことについて考える。

家族同士で互いに監禁、拷問をするように洗脳した。 

家族同士の信頼を完全に破壊し、お互いに憎悪するように仕向けた。

家族同士でお互いに殺しあわせるように仕向けた。


・・・
これってちょっとすごいことだと思う。


こうなってくると、完全にアウシュヴィッツを超えてる気がするんだ。


また「夜と霧」の話だけど、
アウシュヴィッツに収監された人達は、そんな状況下であっても、
生き別れた家族について思いを馳せたり、彼らに再び会うために生き残ることを誓ったりする事は出来た。
(例え家族は死んでしまっていてもだ!)

その「自由」だけは残された。

「心だけは束縛することが出来ない」
 そう訴えることが出来たんだ!

そして
そういった心の支え、「希望」を捨てなかった人達は、実際にアウシュヴィッツを生き残ることが出来たのだ。

あれくらいの過酷な状況でも、家族を想う気持ちとかがあれば、人間はたえぬくことが出来るのだ。
(結果的にこのニートらしからぬ事書いてる! 「家族を想う気持ち」だとさ!)


その点、角田美代子に乗っ取られた家族は、ナチスでも奪うことのできなかった
「家族を想う気持ち」「心の自由」すら破壊され、「互いの憎悪と疑心暗鬼の感情だけで」生きていたってことだ。 

そして、その挙句に家族を自分の手で殺し、遺体を解体し、処理し、廃棄させられ、
最終的には自分自身も家族の手によって殺されたのだ。



この救いの無さっぷり、この絶望っぷり、この心身ともに最悪の環境っぷりは、
やはり余裕でアウシュヴィッツを超えていると思う。



・・・つまり、現代日本においても、ヒットラー以上に他人を不幸にすることは可能だったということが分かる。

アンネ・フランク以上に不幸な人間くらいは、どこでも、今からでも作り出すことが出来るんだ。 やろうと思えば。
(ちなみに「アンネの日記」の真偽とかは実はどうでもいいよ)


「じゃりン子チエ」という作品でよく (何故今、じゃりン子チエ?) (最近趣味がどんどん古くなっていくんだよ)
「ウチは日本一不幸な少女や~」というセリフが聞かれる。

もう多分、チエちゃんなんか全く日本一不幸な少女じゃないって分かる。

あの角田美代子の支配下で、実際に親を殺して、その死体を解体させられた子どもたちがいるではないか。
多分、あの辺りのレベルになって初めて、日本一不幸な子供とかの候補になってくると思うんだ。


ちょっとした虐待とか、ネグレクトとか、事故とか、病気とか、障害とか、
そういうのから来る不幸など、全部吹き飛ばす、そんな「人為的最不幸」が、考えられるということ。

それは、ちょっとした危害とか、拷問とか、監禁とかを超えるレベルである。

メキシコのマフィアだって酷いことはするだろうが、せいぜい「拷問して殺す」くらいのことしかやらない。

例え拷問の激痛の末に死んだ人がいたとしても、
それでも「人間としての尊厳」だけは踏みにじれらていないと思う。

そこん所すら、破壊することが出来た人間が、確かに居たのだ。


遠藤周作の「沈黙」も絶句するレベル。 (凄まじい拷問ということでちょっと思い出した小説)

今から考えると
あのお話ですら、「ちょっと拷問して信仰を曲げさせた程度」のことである。

あれでも、「自分は拷問に屈したのではない」「農民を救うために信仰を曲げたのだ」とかいう風に尊厳を保つことが出来る。
酷い拷問でも、最後の最後で人間は自分の心を守る事ができる。


だが自分すら許すことが出来ないような拷問が、あったのだ。

角田美代子はそれをしたのだ。

凄い。


そんな色んなことに思いを馳せながら、
「本当の最悪の不幸を体感した具体的人間」について考える。


今、「地球で一番の不幸」を経験している人間は、どこにいるのだろう。
分からない。 分からないが、確実に一人だけは存在している。


答えは出ない。
答えは出ないけど、
その答えとなる人物は、宇宙のどこかに確実に存在はする・しただろうということ。
でも人間はその答えを知ることが出来ない。 
(いわゆる不可知ってやつだ)


そんな人間の内面の中に、ちょっとだけ精神ダイブしてみたいように思ってしまう。

(自分の人生が糞な人間ほど、そういうことを考えるのだろう)
(自分以下の人生が見てみたい)
(それすらエンタメになるという)

でももしも、人間の脳みそに「視聴率」「接続数」というモノがあったら
その視聴率で1位を獲れるのは、世界で一番不幸な人間の脳みそだと思うんだ。



で、先の文章でも分かった通り、この「地球で一番不幸な人間」というのは
別に今から作り出すことだって出来るってことに気づく。


この思考プロセス。

・「最も不幸な人間」についてあらゆる角度から考える

・確実に存在する「最悪」に到達する方法について考える

・自ら「最悪」を作り出す可能性に思い立つ



このような考えにいたり、
「地球で一番不幸な人間をプロデュースしよう!」
「自分がそのプロデューサーになろう!」
という目的意識を持った人間が現れたなら、
今からでもそのランキングは書き変えられる気がする。


別に無理して、
ヒットラーやポルポトのような権力者・独裁者を目指さなくてもいい。

異常な信念や行動力なんか無くていい。

必要なのは思いつきと好奇心だけ。

別に毛沢東のように、「虐殺数ランキング」で世界一を狙わなくていいんだ!

たったひとりの人間を不幸のどん底に叩き落とすことが出来れば、
その時点で「地球一を目指す資格」があるのだ。
量より質なんだ!

なぜなら、結局のところ人間は「自分一人分の不幸」しか見つめることが出来ないから。 (他人の不幸に共感できる~とかそういう話ではない)

「たったひとり」を突き詰めるだけでいいのだ。 


誰かがどこかでやっている気がするんだ。 

「地球一を目指すための拷問」を。 ここまでの自分の考えと同じようなことを誰かが思いついてくれている。

そんなことを自分はよく考える。


この地球上で、誰かが、「自分こそが地球一の不幸を創り出すのだ」と一念発起してくれている。
 
そのために、きっと努力をしてくれているはずだろうと。

そんな構図が、確かに想像できる。

(結局他人任せなのかよ)


他にも「最悪」についてよく考えること。


「自分に訪れうる最悪」についても考える。

これから何がどうなったら、自分にとって最も最悪だろうか?


この考えも先ほどと同様に、
究極の最悪について突き詰めて考えて行くと
「ちょっと人生においてリアルに訪れるような不幸イベント」なんて、だんだん数のうちにもカウントしないようになる。

「ガンになったらどうか」
「失明したらどうか」
「五体不満足になったらどうか」
「ホームレスになったらどうか」
とか、

そういうのも全部吹き飛んでいく。 そんなのはちょっとした「要素」に過ぎない。


そこで自分がよく考えるシチュエーションは
「全ての五感を失って、無音、完全な闇の中で、自分の意識だけがある状態がずっと続いたらどうなるか」
ということだったりする。


この状況というのは中々興味深い。
色々な人がこの発想にたどり着くらしい。


「閉じ込め症候群」は、五感があるにも関わらず外部とコミュニケーションが取れない状況だが、
これはそれより恐ろしい。  「ガラスの脳」どころではない。 「水槽の中の脳」。 「生きている脳」


こういう状況を扱ったフィクションというのは結構知っている。


藤崎竜の「封神演義」で、ラスボス女禍がやってきた精神攻撃がこれである。

無音の闇

五感の支配

普通の人間ならば1時間ともたずに精神が崩壊する!!


・・・だそうです。


山岸凉子のホラー短篇集、
「私の人形は良い人形」に収録されている「黄泉平坂」という短編。

ここに出てくる、地縛霊の意識というのも、このシチュエーションに似ている。

五感と五体を失って、意識だけになってさまよい続けるのだ。


そう、この「五感を失って意識だけが残される」という状態を
イコール「死後の世界」として想定している人は結構いるのだ。


人間は死の淵で走馬灯を見るという。 

そこでは一生分の時間を数秒で体感するようになる。

つまり時間の圧縮が死の間際で起きるのだ。

そして死ぬ瞬間にそれは最加速し、主観時間が無限になる。

そこは意識だけが取り残された世界である。

永遠の無音の闇の中に、意識だけが残るというわけだ。

それこそが地獄の責め苦であると。


そういうオカルト話が、よくあると思う。


勿論それ自体は馬鹿げた考えである。


でも、この考えがちょっとだけ興味深いのが、
「死の間際に主観時間が無限になる」という部分が、
「ビッグクランチの瞬間に文明の加速が最大限になり、人類は無限の主観時間を手に入れられる」という
SFによくある「宇宙の終焉の迎え方」と似通っているところである。


似ている。  

個人の人生の始まりと終わりを、宇宙のモデルに重ねている感じが、ちょっとだけ面白いと思う。


自分の場合はもっと別のアプローチでいくけどね。

かなり前に書いた「スピーチバルーン理論」

「人間原理」×「ニートの賭け」 (「パルカルの賭け」のニート版)

「何故自分の主観は自分の主観に連結しているのか」
「何故自分の意識は自分の意識を見ているのか」
「他の誰でも良かったのに」


これに対する答えが出ない以上、
「自分が自分であるという現象」には「別の次元への漏れ」があってもおかしくないと言える。


読者が漫画の登場人物の頭のスピーチバルーンを読んでいるから、
その漫画の登場人物は「哲学的ゾンビ」ではないのだ、というモデル。
(読者=上位次元の存在)


そして自分だけはゾンビでないと分かっている。
(まぁゾンビはみなそう言うのだが・・・)


それで言えば、登場人物が肉体的に死んだとしても、
読者はいつでも登場人物の意識を再生することが出来るではないか。


つまり
「自分を哲学的ゾンビで無くしている別次元の要因」が、
もしも自分の肉体が滅びた後にも持続したとしたら・・・?
みたいな風な事が考えられるようになる。


死後、認識だけが残り続ける現象があるとしたら、
自分ならそんな風に説明する。

自分なら、そんなストーリーを考える。
という話でした。


話逸れまくり。


で、この
「五感の遮断と永遠の闇の中で意識だけになったら、自分ならどうやってその状況を耐えるか」
「自分なら何時間で発狂するか」
みたいなことも、よく考える。

(つまんない人生を送っていると、こんなことばっかり頭のなかで考えるようになるのだ)



・寝る
(これは多分悪手)

・頭のなかで歌をうたう
・頭のなかで曲を再生する

 (日本語じゃない歌とか、長い組曲系の作業用BGMを再生しようとするのが長く耐えられそう)

・頭のなかで映画・映像を再生する
 (エヴァならかなり長期間頑張れると思う)
 (フリクリならかなり鮮明に動画として再生出来る)

・今までの人生をひたすら思い出し続ける
 (「人生は実はそれ自体が走馬灯である」、みたいな無限ループになりそうで怖い)

・今まで読んだ漫画を、頭のなかで「コマの形まで再現しながら」流して見る
 (ジョジョならかなり長期間頑張れると思う)


・・・とはいえ、この辺はすぐに限界が来ると思う。


で、色々考えたけど、永遠の闇の中でかなり耐えられそうなのは
「自分の頭のなかで自分に対してクイズを出し続ける」というのが良いような気がした。

問題は、自分でも答えの分からないクイズの問題をどうやって自分だけで提供するか、である。

でもそれなら適した問題がある。
「テンパズル」とかなら、簡単に自分で創り、自分で挑戦することが出来る。
(四則演算で4つの数字から10を作るやつね)

テンパズルは単純すぎるので、もうちょっと複雑で面白いレパートリーが欲しい所。

他にも頭のなかだけでも遊べるような「ソリティア」をいくつか覚えておいたり、色々考えておくといいかもしれない。
(ここでの「ソリティア」というのは一人用テーブルゲームのこと)


・・・まぁこんなのは机上の空論だ。


実際の、本物の五感のシャットダウンというのは、
「頭のなかで延々と考え続けるネタがある限り耐えられる」とかいうレベルのモノではないだろう。

人間はただただ、外部刺激が必要なのだ。

頑張ったところで、なんだかんだであっという間に発狂してしまうに違いない。



で、こんな事に関しては、全く同じようなことを考えていた人がいたので
もうオシマイにする。

感覚遮断実験の恐怖について


ここからどんどん雑談みたいに話がずれていく。

臨死時の意識について考えるのは面白い。

このレベルの研究者の人ですら、たった数回の臨死体験でこんなことを言ってしまうようになってしまう。
ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作


これを聞いて自分が考えたことは、
死ぬ間際に右脳と左脳のどちらが先に死ぬかで、天国を見るとの地獄を見るのに別れるのではないか、という仮説。

まぁどうでもいい。

とにかく「死の恐怖」というのは、
どれほど賢い人達にも「死後の世界」を信じさせてしまうほど強力なのだ。

死について私達が信じる4つの物語

「死後のなんちゃら」を信じようとしてしまうのは、全てバイアスなのだ。

分かってる分かってる。


それでも自分は、太宰治じゃないが、
「天国は信じないが地獄は信じてしまいそう」なタイプの人間なんだ。

本気じゃないが、地獄を想定してしまう。 

地獄について夢想してしまう。

地獄を思い描いてしまう。

だから、「五感を絶たれて脳みそだけになった状況に陥ったらどうするか」みたいなどうにもならぬ事について、
いつもいつも考えてしまうんだ。


で、気がついたら
「最悪」について考えていたはずなのに
いつのまにかヌルい話になってしまった気がする。


五感の遮断?

無音の闇?


はて、そんなにお辛いだろうか?


「そうでもない」気がする。

何故なら、もっと具体的に過酷な苦痛がいくらでも考えられるから。

樹海で木の幹に括りつけられて、体中にハチミツを塗りたくられると、
生きたまま虫達に少しずつ噛みつかれながら、最悪のかゆみの中ですぐに発狂してしまうらしい。


例えばそんな拷問・苦悶の死から比べれば、「無音の闇で発狂」自体、同じ発狂でもどうってことない気がしてくる。

他にも、

・水をポタポタ頭の上に垂らす拷問とか、
・ヤギに足の裏を延々と舐めさせる拷問とか、
・穴を掘っては埋めてを繰り返す拷問とか、
「銀と金」の誠京麻雀編の、地下に監禁された大学教授の話とか、
・・・


「楽そうに見えるけど常人は耐えられないんだよ~」みたいな拷問は、
やっぱり、なんだかんだで他の拷問と比べるとどうということはないように思えてしまう。

緩やかに発狂したからって、それがなんだというのか? という感じ。
それなら「最初からスピードを狙えよ!」ということになる。


かといって別に「樹海&ハチミツ」が最悪の拷問ってことでも無いだろう。

じゃあ最悪ってなんだろう? (結局ここに戻ってくる)

分からない。 

これまた、ググっても誰も真剣に考えてないみたいだ。

単に、拷問の種類を並べているだけで、
「どれが最悪か」「どれが最大量の不幸を持続的に出力できるか」については真面目に考えてない気がする。


勿論、普通の拷問は「何か情報を吐かせる」とか「何か信念を曲げさせる」とかの目的があるわけで、
単に意味もなく人間を苦しめ続けるような拷問は想定されていないのかもしれない。

一方、最終的に完全に死なせてしまう処刑器具は話にならないし。


参考:
業田良家 チベット漫画 「慈悲と修羅」

うーむ。 やはり中国の拷問の歴史は凄い。
これを越えていかなければいかないのだ。


「純粋に最悪の苦しみだけを発生させ続ける」という発想が何故なかったのだろう。


何故「快楽機械」の逆バージョンについて、誰も思いつかなかったのだろう。

それでなら、誰でも内面世界の世界1位を狙えるというのに!


「幸福最大化装置」なんか今の技術じゃ絶対作れない。
でも「苦痛最大化装置」なら、作ろうと思えば今からでもそれなりのモノが作れるはずだ。


「世界で一番幸せな人間になろう!」とか
「(恋人とか子供とかを)世界で一番幸せな人間にしよう!」なんて、
どんなに努力したって絶対無理だし、「絶対に目指したって無駄」ってハッキリ分かるけど、


「世界で一番の量の苦痛を味わい続けた人間を生み出そう!」なら、
目指そうと思った瞬間から目指せると思うんだけどなぁ。


とにかくこの、
「世界一の不幸は 創りだすことが可能である」
「世界一の不幸は この世のどこかにいる」

という題材は、ひたすら魅力的で、ひたすら恐ろしく、ひたすら興味深いと思う。



で、次に「最悪の罪」について考える。

「この世で一番悪いこと」とはなんだろうか。

強盗殺人? 放火? 一般的にはそういうことになっている。

でも、
本当は
「地球を壊す」とか
「地球人を70億人殺す」とかの方がもっと罪は重いはずだ。 ヘリクツだけど。


そもそも「罪」とはなんだろうか?

どうやって統一的に定義できる?

量刑とは何によって決まるのか?

『価値を台無しにすること』?
『他人の人生の可能性を潰すこと』?


色々考えられるだろうけど、
自分としては「人間が人間に対して『何してくれとるんじゃコイツは!?』と思うこと」なのだと思う。

実は、これが全てなのだ。


だから、知らないところでアルファ・ケンタウリの宇宙人を何億人殺そうが、地球では罪にはならないし
知らない価値ある惑星をいくら破壊しても地球人としては罪人にならない。
宇宙に統一的な価値基準なんかないのもあるけど。

人間が「閻魔大王」について勝手に妄想するときも、結局「人間視点の価値基準」でしか罪を測ってないことが分かる。


で、さっき言った例だけど、
「地球人を70億人殺す」という行為を、「人間がすることが出来る最も罪深い行為」として定めていいだろうか??

自分は、これは違うと思う。

やはり、掛け算は掛け算として分解しなければいけないと思う。

つまりこれは、あくまで「一つの殺人」が「70億回あった」から、結果的に最悪の罪になっているだけの話である。


そうやって分解して考えると
「一つの単なる殺人」自体は、そこまで罪深い行為の要素では無いと分かる。


では、もっと罪深い行為としては何が考えられるだろう?

やっぱり「価値あるモノ」を壊すか?
・・・
こういうことを考えだして初めて、どうも別の考え方が見えてくる。


実際、「人間一人の命よりも価値が重いもの」なんかは、いくらでも思いつく。
でも、それを壊した時の罪は、人を一人を殺した時重くなるかというと、そうはならないのだ。

例えば「人間10人分の価値を持つ建物」をぶっ壊したとする。
でも、それで人間10人を殺したように死刑になるかというと、絶対にそうはならない。

では量刑とはなんなのか。 イコール「価値の破壊」には比例しないようだ。


・・・で、色々考えていると、
それは結局「人が人を恨む感情」「犯人を懲らしめたいという感情」なのだと分かる。


「人間10人分の価値の建物」を壊したときに
人一人の中で発生する「犯人を懲らしめたい感情」は、
「人間10人を殺した時」よりも低くなってしまうのは仕方がない。

そこんところは、人間は感情の生き物だからだ。

所詮全ては恨みの感情なのです。 それも、個人から個人への。



・・・というようなことまで考えた末、たどり着く

「最も罪深い行動は何なのか」、という答えは
これすなわち、
「一人の人間を限界まで苦しめ抜く行為」なのだ、ということになりました。




その行為をされた人間が、
この行為をした人間に対して抱く「コイツだけは許せない」の度数を最大にするには
これ以上のことは出来ない。 これ以上は無いのです。

何故なら、人間は常に「自分一人分の被害意識」しか持てないから。

つまりここでもまた量より質になってくる。

大勢の人間を微妙に不幸にした総量よりも、
一人の人間を限界まで不幸にしたほうが、罪深さは強くなる、自分はそう考えるのです。


例え地球を壊して全人類を殺したとしても、ひとりひとりの被害は
「ちょっと窒息死して苦しい」程度の死でしかない。
結局人間は「自分一人分の不幸しか見つめられない」ので、これは大した内面世界の被害じゃない。
これを最大化させるには、一人の人間に徹底して集中して想定異常の苦しみを与えるしか無い。



さらにまた別の視点から、
「最悪の罪」について考えていきます。

今度は罪自体ではなくて、「罪の軽減」要素について考える。

どんな人間ならば、情状酌量の余地があるか?

・誰かを助けるために悪人になった人

・生まれのせいで悪人になった人

・環境のせいで悪人になった人

・精神的に障害があって悪人になった人

・何か仕方のない理由があって悪人になった人
・・・


色々あるけど、自分に言わせれば、全部「セーフ」です。

ジョン・ゲイシー、アンドレイ・チカチーロ、アルバート・フィッシュ、メアリー・ベル、都井睦雄・・・
世の中のサイコパス、大量殺人犯、猟奇殺人犯なんて、大抵、生まれ育った環境に問題があります。 調べれば分かる。

だから彼らは、自分に言わせれば「純粋な悪人」からは程遠いのです。 誠に残念ながら。
全員赦されてしまいます。 誠に残念ながら。


では逆に、どんなのが許されないか?

・自分の利益のために悪行をした人

・自分の宗教とか信念とか理想のために他人を傷つけた人

・良かれと思って他人を苦しめた人
・・・


これすらも、自分に言わせれば、全部「セーフ」です。
どんなに自分勝手な人でも、罪は軽減されてしまいます。

他人のために善行をする > 自分のために善行をする > 他人のために悪行をする > 自分のために悪行をする
色々ランク付けは出来るでしょう。

このランク付けの、最底辺とは何になるのか、考えてみるのです。
(自分の利益のために悪行をするのは、自分の良心に則って善行をするのと本質的に変わらんと気づくはず)

となると、どういう風に罪を犯せば、究極的に人間は罪を軽減されないのかが、見えてきます。

それは
「誰のためにもならない悪行をする」
(自分のためですらない)
「何の理由もないのに悪行をする」
(何の恨みも、因果関係も無いことに対して)

だと分かります。


これこそが、罪を軽減されない
「純粋な悪人」だけがたどり着ける境地だと思います。


そしてこれは凄く難しい。

何故なら、その犯人はサイコパスであってはならないし、
何か貧乏だとか、社会に恨みを持っているとか、そんな犯罪に至るべき「些細な理由」すら抱えてはならんのです。


で、今までの話を全部まとめます。

・最悪の罪の最小単位とは、一人の人間を限界まで苦しめ抜くこと

・最悪の悪人とは、何の理由も、何の原因もなく、犯行を犯すことが出来る人間


この2つを組み合わせて初めて、「最も罪深い罪」というのが生まれると思うのです。


何の身体的にも精神的にもおかしなことはなく、
何不自由なく育ってきた人間が、
ある日突然、
思いつきだけで、
全くの関係のない人間を、何の理由もなく、監禁、拷問、洗脳・・・限界まで苦しめ続けた時、
はじめて
「人類史上最大最悪の罪」というモノが成立するのです。

ようやくそこに手が届こうというのです。


要は今まで書いてきた文章は、全部このためですね。

これから比べれば、今まで人類が為してきた悪行など、全部可愛らしいものです。

理由のある罪なんて、
自分のための罪なんて、全部、ゴミです。 吹いて飛びます。


で、この「最悪の罪」を成し遂げるためにはどうすればいいか。


本当に難しいです。


まず、なんで「何の問題も無い善良な人間」がそんな酷いことを突然しなければならないのか。
「幽遊白書」とか、「ネウロ」とかに、そこに至るためのヒントがあるような気がする)
あとフィラ演

このためには、まぁ自分のこの文章を読んで、何か納得してもらうしかないですね。


勿論「こんな文章を読む」というのも「犯行に至った理由」になってしまうから、
その時点で「純粋な悪人」からは一歩遠ざかるというめんどくささなのだけれど。


ちなみに自分なんかも「純粋な悪人」からは程遠いです。
まずニートってのがダメ。 悪人になる理由が山ほどある。 
だから自分は、このことを思いついても、実行できないのです。


本当は、今まで自分が考えてきたこの思考と全く同じようなことを
ある日突然思いついてくれた善良な市民、という人がいてくれたら、有難い。

そしてその人がこの思いつきを実行してくれたら、有難い。

とても有難い。

本当に、それだけ。



そのことを伝えたいためだけの文書だったのです。


なんで「最悪の罪」なんかについて考えるのか?

分からない。 でも、とにかく考えてしまう。


「最大の善行」なんかについて考えたって面白くないし、どうにも形がつかめない。
でも、「最悪の罪」は、考えるとその方向性がまとまっていくんだ。


「最悪」というのは、一度考えてしまえば、あとは全部それよりは「マシ」だからだろう。

だから「最悪」というのはとても安心する。


というわけで、みんな「最悪」について考えよう。 という話でした。


次は「最高の幸福について」 いつか書きたいもんです。
(この話をひっくり返したような話にはなりません)
(いい話にもなりません)

関連記事
[ 2014/12/09 18:39 ] 駄文 | TB(0) | CM(3)
どうも、ダクソ2のノーノーページから飛んできたものです、初めまして。

二年も前のページに突っ込むなよ!と思われましたらそれまでですが、眠れないのでコメントの一つでも残させてもらいます。

さて、本題ですが、最悪の罪を生み出す人間についてです。
筆者の結論は理由のない悪行こそが最大の罪になり得るというものでしたが、前提条件として、理由のない行動というものが存在し得るか、と疑問を抱きました。

どんな行動においても、直接原因でなければ、因果関係などはいくらでも考えられ、生み出されると思うのです(他人が考える以上その正誤は証明のしようがありませんけども)

仮に理由のない悪行が存在し、ある人がそれを行ったとしても、私たち他人はそれを観測する以上、その事件を知るために、その行動の中に必ず因果関係を仮定し、認識してしまいます。
その仮定が当たろうが当たるまいが関係ありません、認識されてしまった以上、その人の行動の理由は存在するものとして扱われます。
誰かが理由のない行動を行っても、私たちが理由を妄想してしまう時に、そこに理由は成立してしまうのです。

観測されない理由というものは存在してると言えるのでしょうか。

そして罪深さを量る時に、その行動に理由がない、という結論を人間が下すことができるのでしょうか。

罪や価値観ってのは他人ありきのものですからね、この2点について何か考えがお有りでしたら聞いてみたいです。

あー、えと一応、別に私は筆者の意見を否定するつもりで書いたわけではないので違う考えならそれはそれでいいのですwただまぁ、面白い文章を見つけたので興がのっただけです。

また気が向いたら見にきますね。

さて、またノーノーチャレンジするか...土の塔の傀儡が鬼門だ...
[ 2015/03/10 05:53 ] [ 編集 ]
※追記
よく見たら二年どころか二カ月前だった;
[ 2015/03/10 05:55 ] [ 編集 ]
コメント返信
> 左右汰 さん

どうもです。
ダクソのノーノーからですかw まぁ我ながらカオスなブログしてますからね。



>前提条件として、理由のない行動というものが存在し得るか、と疑問を抱きました。

> 誰かが理由のない行動を行っても、私たちが理由を妄想してしまう時に、そこに理由は成立してしまうのです。

> 観測されない理由というものは存在してると言えるのでしょうか。


そうですね。
本当に理由なき悪行など実行できるのか。
なんの原因もなく悪になれる人間など存在しうるのか。


この辺は自分でも本当に難しいと思っています。


所詮この世は cause & reaction 。

原因なく発生するなんて、宇宙自身にだって不可能。

殺人鬼は殺人の理由を「太陽が眩しかったから」と言ったっていいし、
もっと言うと、「ビッグバンが起きたから自分は殺人を犯した。ビッグバンが悪い」とも
言えてしまうわけです。


まぁそんなこんななので、
普通に考えると確かに「理由のない行動なんて誰にも取ることは出来ない」ということになってしまいます。


ですがまぁ、
一応現実的には「責任」という物があります。

いくらビッグバンが悪い、太陽が悪いと言っても裁かれるときは裁かれます。


「理由はある」といっても認められないときもあるし、
「理由はない」といっても勝手に決めつけられるときもあるでしょう。



そこんところで、なんとかして
「こいつはどうして悪人になったのか、全くもって完全に分からん」と
誰が見ても、本人が見ても、閻魔大王が見ても思えるような存在が現れることを
自分なんかは期待してしまうのです。


これはもう、なんというか「憧れ」のようなものです。


記事の本文内でちょっとだけ触れてますが、
答えを言ってしまうと、幽白の「右京さん」みたいな存在が、自分は気になるのです。

(理想的な家族に生まれて、ごく平凡に育てられたのに、イカレ野郎になったと言うのです)

(それでもまぁ自分の脳みそが腐っていたのが原因だとは言っています)


こういう「理由のなさ」を、どこまで突き詰めていけるのか、それが自分は気になるわけです。


どこにも理由を追求できそうもないのに悪になったような存在が、何とかして生まれないか。

それは、ただ純粋に産まれてくることを祈るしか無い。 (自分で作ろうとしたらそれが原因になってしまうから)

この世でこれほど、「祈るしかない」存在は他にはいないんじゃないかと思えます。

そもそも産まれうるのか存在しうるのか
これほど儚い存在は他にないんじゃないかと。


そういうことを考えさせてくれるのが
この絶対悪という問題なのだと思うのですよ。

だからこそ自分はこのテーマについていつも考えてしまうのです。



>観測されない理由というものは存在してると言えるのでしょうか。


すげえ難しいですね。

観測できないモノは存在しないんじゃないかなと、自分も言ってしまいそうになります。

ということは理由を見いだせない悪行もまた存在出来ないということになってしまうかもしれません。

誰から見ても理由が見つかないような悪行を成せたらそういう存在になれるのでしょうが、
この世の誰か一人でもそこに難癖をつけて理由を見出した瞬間にその悪行が消えてしまうとしたら、
その悪行は「観測された瞬間に消えてしまう存在」みたいに思えてきますから。


なんということだ 絶対悪は観測されると消えるのか? いやいや




>そして罪深さを量る時に、その行動に理由がない、という結論を人間が下すことができるのでしょうか。

これも難しいですね。

もし仮に絶対悪が生まれたとしても
自分はそいつを観測できないかもしれません。

そいつはどこかで勝手に悪さをして、勝手に捕まって、
勝手に理由を付けられて、普通に裁かれるだけかもしれません。

そいつには理由がないからこそ最悪の罪だ、と判定出来る人間ってのも
ひょっとするとどこにもいないかもしれません。



でも、自分だけは
「ソイツには理由がなかった」ということを「理解してあげたい」と思っているのです。

まだ見ぬ、観測できないソイツに言っているのです。 

この世の誰が認めなくても、自分だけはその絶対悪を認めてやりたいと思っているのです。

本当に我ながら意味不明ですが。


はい。なんかそんな感じです。答えられてないですね。スイマセン。



> さて、またノーノーチャレンジするか...土の塔の傀儡が鬼門だ...

ではノーノー頑張ってください。
ほんと傀儡あたりが怖いんですよね。

[ 2015/03/10 21:04 ] [ 編集 ]
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