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江戸時代バイキング


「どうでも良くないこと」を書くとめんどうなことになるということが分かったので、
(最初から分かっとけ 分かってる)

今回は「どうでもいいこと」を書こう。


例えば「食べ物」の話。


自分は「食」というものをかなり軽視している。
「どうでもいい」と思っている。


そういうどうでもいい話。



  
食の軽視


ところで
「食の軍師」のドラマが、まぁ多分、そこそこにおもしろい。

(弁当回とか「夜汽車の男」だよ マジで)



で、先々々週くらいが「バイキング回」だったのだが
原作では出てきてない筈の力石が出てきて結局対決する流れになった。

が、
そこで力石がやったことが、
「ひたすら原価率の高いカニばっか食べて店にダメージを出す」というスタイルだった。

んで、なんとそれで力石の「勝ち」になっていたのだ。


自分はそういうのを見ると、ものすごくモヤモヤする。


バイキングで、
ひたすら「元を取る」ことばかり考えるとか、
ひたすら「原価率」のことばかり考えるとか、
ひたすら「いかにして店にダメージを与えるか」について考える
というのは、
実は間違っているのではないか?と思うのだ。


実は最優先すべき基準はもっと別の所に
あるんじゃないかと考える。


例えばこんなことを考えてみよう。

大昔にタイムスリップしたとする。

時は江戸時代。

当時は「トロ」は 
「捨てる部位」 「ゴミ」 「油っこくてまずい」
とされていた。
(まぁこのへんの細かい時代考証も本来色々あるんだろうが、まぁ捨て置けぃ)


だからもし、江戸時代にバイキングがあったとしたら
トロの寿司は「激安」だということになる。 (そもそも扱っているのかという話だが)
よって、江戸時代のバイキングに行ったとしても
トロに群がる当時の人なんていないだろう。


じゃあ、江戸時代にタイムスリップしたあなたは、トロの寿司を
「ラッキー!誰も手をつけてない!トロ食べ放題じゃ!」と考えるか?

それとも、
「この時代ではこれはゴミの値段だから、トロを食べても元を取れない。損だ」
「普通のマグロを食べよう!」
と考えるか?

・・・
という問題ですよ。


逆もある。

未来にタイムスリップして、またバイキングに行くとする。

そこではもう、マグロ自体が絶滅危惧種になっていて、
普通のマグロが超絶高級品ということで人が群がっていたとする。

オーガニック・ツナ・スシ。

じゃあそこで、
「いまマグロを食べることが店に一番ダメージを与える秘訣だ」とか考えて
マグロの列にならぶか?


という問題ですよ。
(この「江戸時代バイキング」というのは自分が作ったイミフ思考実験ね)


こういうシチュエーションについて考えると、
何かが見えてくるはずだ。


「時代を超える価値観」というものがあるはずだということ。

それは、
「値段」や「レアリティ」に囚われるモノではない。



つまり、
その食べ物を食べた時に『自分の脳がどれだけ喜ぶか』という基準こそが
どんな時代や価値観も超えることが出来るはずだと。

(勿論値段によって引きずられるプラシーボ効果もあるだろうが)


一定の金を払うことでどれだけのサービスを得られるか。

そこで見返りとして得られるサービスのコストが、
その値段より大きいかどうかをそんなに気にするべきだろうか、ということ。

そのサービスで得られた自分の満足感が
その値段分を超えているのならば、それでいいのではないかと思うのだ。


まぁそんなわけで、
バイキングでは自分が好きなモノを好きに食えばええやん、と
自分は前々から考えているのだ。


本郷の勝ち。


で、まだ気になる所が残っている。
「自分の脳がどれだけ喜ぶか」というのは数値化できるか?というポイントだが。
まぁいつか、そういう技術は作られるだろう。

ある食材を食った時に脳内物質がどれだけ出るか。
それの個人版のデータベースとかも作られる時代が、いつか来るだろう。
確実に。


そういう技術が固まった時はじめて
人類は、ここに書かれているような価値観に気づき始めるのだろう。

(だがこうやって想像すれば、その価値観を先取りする事ができるのだ)
仮想的に原始人から脱却できる!
未来人の電波を受信するんのだ!


そういう未来になるまで、
こういう「江戸時代バイキング問題」について
考えたことがない人は、

「値段」
「コスパ」
「原価率」
・・・

そういう「金由来」の「1次関数的な基準だけ」が価値基準の拠り所なので、
そういうことでしか、「自分が何を食うべきか」を判断することができなかった。


だから、あの力石みたいな人間が産まれるし、
あの力石の食い方のスタイルを「勝ち」としてしまう
あのドラマのスタッフみたいな人間が産まれてしまうのだ。

それではイカン。

「脳の喜び」を値段で割った、新たなる指標。
「脳の喜び率」というモノが測ることが出来るようになったとき、
ようやく、それを新基準にする人達が出てくるのだろう。


そんな未来が想像できる。


だがだが、
更に、
それだけでも無いと思うのだ。


例えば
「刃牙」のオリバがこんなことを言っていた。

オリバ

「この葡萄を醗酵させた液体のどこに―――――」
「10ドルで売られる手頃なワインの10000倍もの価値がある」
「ウマさはせいぜいが11~12倍」
「喜びもせいぜいが14~15倍」


範馬刃牙 -SON OF OGRE- 第08巻 第62話より抜粋


万倍の値段を払っても
脳の喜びは15倍だと言っているワケだ。


「脳の喜び率」で言うならば、
「安物のワイン」の方が 666倍も、むしろ効率が良いことになる。


ここで
刃牙を読んだことがある人なら、逆説的に
「オリバが言ってることがなんか間違ってるような気分」になってくるはずだ。


(まぁあのシーンで言いたいことはもっと別のコトなのだろうが)
(所長室で贅沢してるオリバよりも、懲罰房で刃牙が飲む一杯の水の方がウマイ、だとか)


つまり
「そんな単純に値段で割っただけでいいのかよ??」ということ。


勿論、金が無尽蔵にある人からすれば
「値段で割る」という部分が無意味になるってのもあるだろう。

だから金持ちは、より高いもの、より良い物を食うのだと解釈もできるだろう。

「食うのにかかる時間」
「腹に収めることが出来る収容効率」

とかで考えると、
たとえ666倍効率が悪かったとしても
美味いワインで腹を満たしたいと思うのが、金持ちなのだろう。


・・・
・・・いやそうじゃないんだよ。

本当に考えるべきポイントは。

値段で「割る」というところ。

「割る」ということの単純さだ。

何故、割る?

「割る」というのは

「-1乗する」ということだ。

何故、「-1乗」しか考えないんだ? というところ。



実際問題
「モノの値段」と「クオリティ」というものは「比例」しない。

「二倍」の手間をかけた料理が「二倍」の味になるなんてことは滅多にない。


何か創作物でもいい。
「二倍」時間をかければ完成度が「二倍」になるなんてこともありえない。


70%のモノを作るのはすぐ。
それを80%に高めるのに同じ時間がかかる。
それを90%に高めるのには更に倍の時間が・・・
そして100%には永遠に辿りつけない・・・


みたいな創造論はよく語られている。

まぁとにかく
時間、手間、レアリティ・・・
「コストとクオリティは比例しない」のだ。 

それが法則だ。


コストに「比例してない」のに、
コストで「割って」どうする。

それは、関数が間違っている。

-1乗するのが間違っている。

じゃあどうする?、
他には例えば
√とかlogとかで割るとかが考えられるじゃないか。

そこで、ようやくどうすればいいかが見えてくる。


つまり、

ありとあらゆる食材、
「値段」「脳の喜び度」(前述の未来の機械で測れる)
の組み合わせを計測し、
値段を横軸、脳の喜び量を縦軸にしたグラフをつくる。


そしてそのグラフが
値段に沿ってどのようなラインをたどるのか、
その曲線を統計的に「推定」するのだ。


仮にその曲線を「最強喜びコスパ曲線」とでも名付ける。


こうすることにより、全ての食べ物は
その関数のラインと比べて「どれだけ上にあるか下にあるか」が定められる。


そして、その関数の何倍の効率を出すことが出来るかというのが
新たなる新基準
「最強喜びコスパ」となるのだ。


これで、力石もオリバも、倒すことが出来ましたとさ。


こっから先の話もあるんだけどね。
(このくらいの文章と、このくらいの結論で終わっときゃいいんだよ 毎度毎度)


前述で「未来人のバイキング」とか想像したが、
本当は、そんなんじゃないはずだ。

本当の未来は、
食自体が「バーチャルリアリティ」になってるはずだ。 

栄養自体はチューブとか錠剤とかの「別口」でとって、
あとは脳直でフレーバーを楽しむだけになるのだ。

すると、食材のコストとかレアリティという観点は最初から無意味になる。

そもそも、食自体を喜ぶ必要があるのか謎になってくる。
脳が喜ぶ効率ということ自体を考える必要があるのか謎。
体験主義の効率化の果てに、最終的に食というもの自体が消えてなくなる。

まぁとにかく

食材のレアさとか、

原価率とか、

手料理とか、

旬とか、

そういう古い価値観をありがたがっている内は、全部原始人ってことですよ。
(だんだん結論がどうでもよくはなくなってくる・・・)


「食文化が有難い」なんていう幻想は、いつか必ず滅び去る。 敗れ去る。


「ただの砂糖水にフレーバーを付けて、それを個性だと言いはって売っていた商人が、大昔は大勢いたらしい」

「大昔の人達は、食うためなら殺していいという言い訳を言いながら、多くの動物を絶滅させてきたらしい」


・・・
そういうニュアンスの語りぐさにしかならないのが、

未来から見た時の食文化のありさまなんだ。



食というのはタダの「燃料補給」であって、

その燃料のフレーバーに一喜一憂したり、 (天然オイルを喜ぶタチコマかよ)

その燃料補給を「人生の目的」そのものに履き違えてしまったり、

その燃料補給を文化だと思ったり、

その燃料補給を素晴らしい行為だと思ったりするのは、

いつか必ず滅びさる価値観だということです。


いや、やっぱり今現在でさえ
食文化というのはもっともっと軽視していいはずだ。


他の動物を殺して食っている行為を
そんなに誇らしげに嬉しげに楽しげに語る必要はないと思う。


食文化だとかいって
平賀源内のステマに乗せられて、ウナギを絶滅させた現代人なんて、
ドードーを絶滅するまで食べまくった昔の人と変わらないくらい愚かだ。


食というのはもっと恥じるべき、もっとこっそりすべき行動だと自分は思う。
藤子不二雄 「気楽に殺ろうよ」

自分は子供の頃からずーっと食べるのが恥ずかしくて仕方が無かった。
給食の時間が嫌いだった。
(空が灰色だから)


飯テロする人滅び去れ。


なんでこう、グルメレポ番組、メシ漫画ばっかり流行っている世の中なんだ? 原始時代か?
いつまで、そんなブームが続くんだ?


それに対する反対勢力というのが出てきてもいいんじゃないのか?
そろそろ、食文化礼賛というのは「悪」だということが分かってこないのか?


もっと「食」というのはシニカルにとらえていいはずだ。


施川ユウキの「鬱ごはん」

ぜひ読みたい。


・食
・向上心
・審美眼
に対するもう一つの見方。


例えば
「美味しい飯を食わないと満足できない人」と、
「まずい飯をくっても満足できる人」がいた場合、
本当に『幸せ』なのはどっちの人間なのだ? という大問題。




・鳥バードは何を食べても美味いという。 
(こんなに様々なことを考えさせられる歌詞が他にあろうか!)

・蓼食う虫も好き好き。



バカ舌の鳥バードはバカなのか?

蓼食う虫は悪食なのか?



なぜ、グルメに走る?
なぜ、自分の舌を「美食家のような舌」に取り替えようとする? わざわざ!
なぜ、馬鹿舌は悪だと思い込む?
それこそが不幸の始まりなのではないか?



そんなことを考える。

(これは自分がよく言う「足るを知るの否定」とは矛盾しそうで困る)
(最初から味を覚えなければよかったんじゃないかという問題は)
(だが、食文化によって人類の何が発展してきたというのだろう)

(でも「経験機械」の逆版みたいな考えでもある)
(快楽の限界を考える方向ではなくて、快楽を感じる基準を限界まで下げ続けることが出来たとしたら)
(それは快楽機械と何が違うのか、という謎)


大体「味覚の向上」なんてあるのか?

「大人になってワタの苦味、ビールの苦味、味の深みが分かるようになった~」
実はこれは嘘だということが判明している。

子供の頃は鋭敏だった味蕾が加齢とともに摩耗して、
苦味や酸味に関して鈍感になったから
丁度よくなったかのように感じられ、美味しく食べられるようになっただけなのだ。


それなのになぜピーマンを食べられない子供を馬鹿にするのかと思う。
むしろ逆だ。

ピーマンを食べられない
子供の味覚のほうが精緻で、鋭敏で、繊細で、正しかったのだ。



それを認めないということは、
年をとって塩味がわからなくなって、
何にも醤油をドバドバかけないと食べられなくなった老人の味覚のほうが正しい
ということになってしまうぞ。



まぁつまり、「味覚の向上」「味がわかるようになる」なんて、その程度のこと。


究極的には何か。


そもそも味覚なんて必要なのか。


もしも、
「永遠にメシを食わなくても良くなる代わりに
永遠に味覚を失わなければならない」
という「呪い」にかけられるとしたら、

その呪いを喜んで受けようとする人間はいるか?
(自分はこの時点で受けるが)


これだけだと「また美味しいものを食べたくなるかもしれないし・・・」とかで躊躇する人いるかもしれないが、

更に追加で、
「美味しいものを食べたいという欲望ごと永遠に失わなければならない」という呪いになったなら、
結構この呪いを受けたいと思う人が増えるのではないかと思う。


霞を食って生きていけたなら、
その霞がどんなに無味乾燥したテイストであったとしても、やはりそっちの方がいいのだ。


これもまた一つの「食の敗北」である。

所詮、美食欲なんてものは、「食欲に味付けしたような程度のモノ」でしかないということだ。

最初から味なんて覚えなければ良かったのだ!

渾沌に7つの穴など開けなければ良かったのだ!



将来的に人間は動物を殺さなくても栄養補給が出来るようになるだろう。
少なくとも、「殺す動物の一本化」だけは、必ず実現する。

栄養補給だけして、あとのフレーバーはVRで味付けすればいいだけなのだから、
その味のために色んな動物や貴重な動物をわざわざ殺す必要はなくなる。


食には2つの側面がある。
(味覚などの)「体験」「補給」だ。


VR技術の発達によって将来かならず、
この「体験」の部分が「無価値化」する。 


だからこそ何度も言うように
食文化が滅ぶのは分かりきっているわけだが、
ここでさらに!
この「補給」の部分からくる価値観も潰していけないだろうか?



まぁ霞を食って生きていくのは無理だとしても、
例えば紙とか木を食って生きられるようになりないなぁとか、考えないのか?
自分は考えるぞ。


人間も、セルラーゼを利用してセルロースを食べて行けるように
人体を改造しようと考えないのだろうか??


「セルラーゼの話題」


なぜシロアリをみて羨ましいと感じないのか!?
なぜテレビで芸能人が美食レポートしている方をみて羨ましいと感じるのか!!?


逆じゃあないのか???

テレビの美食レポートを軽蔑しろ!!
シロアリを尊敬しろ!!!
ティッシュペーパーを食べてるゆかりんを尊敬しろ!!



自分はそんなことを思うのだ。


もっと言ってやる。

『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。』

何が「命の水」だ。

キリストの、パンや魚を無尽蔵にduplicateする能力。
モーゼの、マナを降らせる能力。


それが何だというのだ。
しょうもない。

そんなことをして満足してる暇があったら、
何故人の子にセルラーゼをあたえて紙を食って生きていけるようにしてやらないのか?

ソッチのほうがよっぽど建設的だ。

ドケチめ。 エルメェス兄貴のキッスに殴られろ。


最近よくこんな豆知識が言われる。

「海苔を消化出来るのは日本人だけなんだよ~腸内細菌のおかげで~」と。

そんなことよりも、もっと注目するべきは
パプアニューギニアの芋ばっか食って生きている人達だと思うんだ。

「パプア高地人の話題」


彼らは芋からでも十分なタンパク質を体内で合成できる可能性がある。
なんという羨ましい腸内細菌か!


海苔を分解できる腸内細菌なんかを誇りにしている暇があったら、
芋をタンパク質に合成できるパプアニューギニアの人達をもっと尊敬するべきじゃあないのか?

そんなことを思う。


「タンパク質を摂るためには動物を殺すのは仕方がないんだよ~」
「命に感謝しなきゃね 頂きます」

そんな「自己欺瞞的発言」を瞬殺できる人達がいるのだ。
仏教徒よりも確実に、ただそこに存在するだけで。


と同時に、ベジタリアンや仏教徒は
精進料理とかを食べる以前に
「パプアニューギニアの人達に腸内細菌を分けて貰うべきではないか?」ということも思うようになる。


なんで「不殺生」とか言いながら「精進料理」なんかを食べて、食を楽しんでるんだ? 
楽しむな。 芋をくえ。
食を楽しんでいる時点で、原始人なのだ。


「パプアニューギニア人以外に産まれて恥ずかしくないの??」


ベジタリアンを馬鹿にする人も
ベジタリアン自身も、両方ぶん殴りたくなってくる。



いい加減「食文化」も、「食の多様性」なんかも、もう守ってやらなくていいはずだ。


なぜなら効率が悪いから。
みんなで大量生産された同じものを統一的に食ったほうが無駄がないから。

現状では、作られる食べ物の「半分」が捨てられている。
それこそが、皆が「食文化」を、「食の多様性」を、「味を楽しむこと」を礼賛し続けた代償なのだ。



みんなで『ソイレント』だけを食って、
もう食についてあれこれ考えるのはやめて細々と生きていけるようにしようとは思わないのか???



そんなことをマジで考えているのだ。


想像してごらん、食文化の無い世界を。
Imagine there’s no food culture.



なんなのだこれは。 

どうでもいい話をしていた筈なのに、もうどうでもよくない。

どうでもよくないけど、ここらで終わる。

完。


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[ 2015/06/13 15:19 ] 駄文 | TB(0) | CM(2)
考えに考えて常識を再建する様に哲学を感じた
[ 2015/06/14 09:27 ] [ 編集 ]
コメント返信
> tukemono さん

「哲学」ですか。
でも哲学って言葉よく分からんのですよね。

考えてみると哲学の定義すら自分はよく分かっていません。

自分がやってるのは思索、とかでいいと思います。
もしくは妄想。

[ 2015/06/24 20:17 ] [ 編集 ]
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