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格差の否定

 
というわけで今度は「格差を否定する話」。


しかしこれは大変な話題な気がする。


大体、「格差を否定する」とか 結論としては普通すぎて自分の趣味に合わない。
「人を殺してはイケナイ」とか、自分が言ったって面白くもなんとも無いからだ。

そういう「当たり前な結論」というのは逆に難しい気がしてきたぞ?



まぁいいや。
前回のクソポエムだけで止まっている方がもっと危険だから、やろう。
(前回がポエムで今回がプレーンなテキストって時点でね)



格差の何が間違っているか。
というか正確には今回のこれは
通常の「格差の是正の話」とは全然違ってくるかもしれない。


もっとこう、

人生の成功と失敗の補正の話とか

人生は運ゲーである本当の意味とか

人間の功績から運の要素を排除して評価する必要性とか

能力主義、成果主義の是非とか

悪いことしても儲ければ勝ちとか
下の人間が苦しんでも儲ければ勝ちとか
炎上商法とか、そういうのを否定する話とか

最終的に「セレンディピティ」の否定とか

下手すりゃノーベル賞の否定とかの話になるんだ。



そう、自分が格差を否定しようとすると、行く所まで行って、
なんと気がついたらノーベル賞を否定することになるのだ!

まぁそういう話をする。



 

まず人生の成功者について考える。



一部の「人生の成功者さん達」は、
成果主義、能力主義、実力主義、新自由主義、弱肉強食・・・
そういうのを思いっクソ肯定したりする。

頑張ったら頑張っただけ金を儲けられる、
優秀なら優秀なだけ金を儲けられる、
二倍賢い人間は二倍金を儲けられる
二倍結果出した人間は二倍金を儲けられる、
それで良いじゃないか、それが当然じゃないかと、うそぶく。


彼らはマジで「格差社会で何が問題なのだ?」とか言ったりする。

(勿論これは自分が前回言ったような論法とは全然違う方向なのだが)



また同時に一部の人生の成功者は
「オレはリスクを先に取った。 だから成功したんだ」
「成功する奴はみんなリスクを犯しているんだ」
みたいなことも、得意気に言っている。


これが、成功者の危ういところなのだ。


彼らは、「自分自身が成功者であるがゆえに」半分のことしか見えていない。

生存者バイアス。



「リスク」と自分で言っているくらいなのだから
失敗していた場合の平行世界も十分ありえたワケだ。

そして失敗した場合は、
タダの事業が失敗して借金まみれになった人間がそこにいるだけなワケだが、

当然そういう「人生の失敗者」は誰もインタビュー聞きにこないので
「人生リスクを先に取るもんでもないよ」
「リスクを犯して失敗したら地獄だよ」という意見は埋没していくワケである。

(そして成功したミュージシャンが「夢をあきらめないで」みたいな歌詞の歌を売り続けていくのである・・・)



さてこれをどう考えるか。


勿論、成功者の中には

「『リスク』と言ったって、オレは本当は勝てる試合しかしなかったぜ」
「オレは本当は全部分析した上で勝負したんだぜ」
「オレは世界の時流をちゃんと読んで、それに上手く乗ったから勝てたんだぜ」
「オレのマネをして失敗した事業者は単に無能だっただけだろうぜ」
・・・
とか、「更に」調子乗ったことを言うのだろうが、
果たしてそれでいいのか。


やはり、人生というのは相当に「運」の要素があるのではないか。

「運」というと語弊があるだろうが、これはもう「予測不可能な複雑さ」によるモノのことだ。


まぁここで「運」という言葉の使い方について
ちゃんと固めていくべきなのだろうか。

相当な言葉だからなこれは。

「運も実力のウチ」とすら言ったりする。
だが今回の自分は、それを排除して行こうと思う。

人間の実力、成果の部分から、運を排除して考える必要性。


この世界、人はどれだけのことを予測していけるだろうか。

実は、さっぱりだろう。

みんな、何も正確な予測など出来ない。


これをこうやれば伸びる、
ここでこう広告を出せばウケる、
ここでこう新商品を出せば売れる。

そんなこと、
大手企業でさえ、何やればどうウケるかなんて実のところサッパリ分からず、探り探りやってるのがよく分かる。


それはもう世界が複雑すぎるからだ。
みんな何がどうウケるかなんて、何となくの「傾向と対策」でそれなりにやっていくしかない。

その上で
「オレは上手くやった」とか、「やっと努力が実った」とか、
「ずっと芽が出なかったけど、やっと世界が評価してくれた」とか言っている訳である。



とくにこの最後のようなセリフを見ていると、
「もう人生は運ゲーではないか?」という気がしてくる。


運ゲーというよりかは、これはもう「パチンコ」のように例えるのが正確な気がする。
(自分はパチンコ一度もやったことは無いが そりゃ仕組みはしってる カイジとか つよパチで)


人間の挑戦とか、
新事業とか、アイディア新商品とか、投資とか、
そういう「投機的」な行動を全て、パチンコの玉を一個弾くことのように例えられると思う。


打っている本人としては、どれも身を削る思いで一生懸命に打っているつもりだろうし、
みんな自信満々のアイディア、新商品、新事業なのだろう。 

ウケて当然だと思って打っているワケだ。


だが、あいにく「それを受けるパチンコの台」の側 (つまり人生、世界全体)が、複雑怪奇すぎるのだ。 


同じように努力の結晶のようなパチンコの玉を打ち続けていても、ウケるときとウケない時がある。

これはもうカオス理論だからだ。 誰も正確な予測など出来ない。

(本当にそんなのが出来る人間がいるならそいつは億万長者になっている)
(もしくは本当の億万長者はパチンコ台を制御する側に回っている)


そしてその複雑な世界は、
人気が人気を呼んだりする調子の良い側面も持っていたりして、一度受けるとフィーバーしつづけたりもする。

流行、ブーム。
あとから考えたら何が面白かったのか全く分からない商品がバカウケしたりする。
別の並行世界なら全く売れてなかったことも容易に想像できる。


だからだ。

ずっとその人の努力を見ている人間(もしくはその当人自信)からしてみれば、

同じような努力をずっとしてきたのに急にアレだけウケた、
アレがウケてから、ようやく人生上手く行き始めた。
みたいなことが往々にしてあるのだと思う。


(本当に、多くの人間の「成功談」ってこんな感じよ)
(ずーっと努力してて、鳴かず飛ばずだったけど、なんかふと一個ウケた それで助かったみたいな話)


これは本当に、人生はパチンコだと思わせる。



つまりハナから「本人の努力」でなんとかなる問題ではなかったのだ。 

本人自信も何がウケるのか全く予測できてなかったし、
それ故にウケるまで打ち続けるしかないのである。  

それが人生なのである。



これが自分の思っている、「人生=パチンコ」みたいな感覚である。


まぁこれを見て、

だから「人事を尽くして、天命を待つと言うのだ!」と思う人もいるだろう。

「成功した者は皆すべからく努力しておる!!」とか言う人もいるだろう。 (はじめの一歩)

「努力した者が成功するとは限らない。しかし、成功する者は皆努力している」 (ベートーベン)

「意志の力で成功しない時には好機の到来を待つほかない」 (ゲーテ)


これらのことから、
「人生はパチンコ、運ゲーなのだからこそ、当たるまで努力して打ち続けるしかない」あたりの認識で
止まっている人もいるだろう。



だが自分が言いたいのはそういうことではない。



つまり、そこまで「運ゲー」であるのなら、

成功者と失敗者を最終的に分かつモノが「運」しかないと言えるのなら、

じゃあ成功者が儲けまくって失敗者が借金まみれなことに対する保証はないのか? ということである。


(で、こういうことを考えだすと、ようやく「所得税」とかを認められるようになってくるのだ)
(よく所得税に対して怒っている成金とかがいるが、
 そういう人は自分が失敗した人間と大差ないことを認識できていないから怒るのである)
(だから脱税とかするのである)
(ノブレス・オブリージュをわきまえるのである)


この世界は複雑すぎる。


だからこそ、一発目の事業が大当たりして大儲けしたり、

やることなすこと全部当たり目が出て、一躍大企業のトップになったような、そういう人間もいるだろうし、

逆に、やることなすこと全部裏目で借金苦で自殺するハメになったような人間もいるだろう。

酷いこと・悪どいことして、炎上商法やステマで有名になったり、
パクリ商品を恥ずかしげもなく売り抜いたりして、結果それで金持ちになったような人間もいるだろう。
(タチワニ)


そこんところの差を
「それが能力主義の結果だから」で片付けていいのかということだ。 


で、
突き詰めるとこの話は


「人間の成功、人間の出した結果の中から、どれだけ運の要素、本人のあずかり知らぬ要素を排除して評価することが出来るのか?」
という話になってくる。



これが出来なければどうしようもない。


ところで最近みんな
仕事とその対価のバランスについて、
色んな事を考え始めている気がする。


なんか「ストレスチェック」みたいな言葉が急に出てきた。

「労働強度」という言葉もある。


その仕事がどれだけ大変か、ちゃんと公平な尺度に照らし合わせようという発想である。

自分はそんなことはずーっと前から考えていた。



じゃあそれの「運補正バージョン」みたいな概念があってもいいんじゃないか?



「アンタは一発事業を当てて偉い人間になったつもりかもしれないけど、
 単にデカイルーレットを一回当てただけだ」とか、

「アンタはあらゆる並行世界で比較しても細々と成功をおさめている
 だからこそ、アンタのような人間だけは実力で人生を成功させたと言える」とか、

そういうことが言える時代。


そういう尺度で
人間の成功失敗を「更に正しく」評価できるようになる時代がくるかもしれないじゃないか。



(もう既に、「一発屋」「成り上がり」「成金」みたいな貶す言葉はあるワケだけど)



というかある種必ずくるだろう。


世界全体をシミュレーションするようなゲームが出て来た場合、

「この経営者、やってること運ゲーじゃねえか
 こいつ主人公でプレイする場合、上手くいくまでリセットするしか無いのかよ」
「こいつの人生、碌な人生じゃないな」
「こんな奴、成功者でもなんでもないな」
・・・
みたいなことが見えてくる。


後の未来で
「その人間が成功者としてどれくらいの「格」だったか」ちゃんと裁かれるような時代がくるかもしれない!



そんな時代のことを考えると、

今みたいに
「勝った人間が勝っただけ儲ける」みたいなのでいいのか? みたいな気分になってくるのだ。


(こんな訳の分からない話をしているのは自分くらいのものだろう・・・)


でまぁそういう風に考え出すと、
能力主義だとか成果主義とかも胡散臭いモンだと思えてくる。



一体どこまでが「個人の努力の範疇」でどこまでが「運の範疇」なのだろう。



何故か「ナニワ金融道」の灰原はんを思い出す。

最初の試験みたいな奴、とりあえず電話帳を渡されて
片っ端から電話番号かけて電凸して、
一個引っかかったら、「見込みのある新人」扱いされたりする。


それって本人の努力でどうにかなる問題じゃなくて運じゃん。

それでも、一件融資の件を見つけたというのは事実である。
だから成果主義的には「結果を出した」ということになる。


世の中の縮図って案外こんなもんじゃないか?と思う。 そしてそんなんでいいのかと。


やはり成果主義とか能力主義というのは怪しいもんである。


いや、システムの目的と構造自体は間違っていない。


だがこれは何のためのシステムなのかというと、
「出来る人間を基準にして、人件費を抑えるためのシステム」と言ってしまっても良いのだ。


となるとこれは「企業側、システム側のための仕組み」であって、
どう考えても「人間が幸せに生きていくための仕組みではない」というのが見えてくる。


仕事の究極的な目的とは何だ?
企業の究極的な目的とは何だ?
人生の究極的な目的とは何だ?


皆が幸せに生きていける世界の成立を目指すはずが、
いつのまにやら企業という「生物ならぬモノ」が効率よく成長するために都合の良いシステムに置き換えられている。
本末転倒。



「能力主義いいじゃん 何故ならオレは優秀だから」なんてうそぶいている人間は、
その時点で、実は「使われる側の人間」にすぎないということである。


ではなぜこんな人を苦しめるようなシステムがありがたがれ、採用されるのかというと
それは力を持った側、金を持っている側、採用する側に有利に出来ているからだろう。


だからこそ、金を持ったやつが持っただけ有利みたいな世界じゃいかんだろとか、そういう話になってくる訳である。


「ナプキンを取れるものが決める」 

「ナプキンを取った奴がそのまま天下を取る」 そんな世界でいいのか?という話である。



(ていうか普通、格差社会を否定するならこういう話をするべきであっただろうか)
(なんの話をしたかったんだろうか)


で、しばらく能力主義disの話を続けてみるけど、

「じゃあ能力主義がダメならどうしろというのか、もしかして年功序列とかに戻せとでもいうのか?」と思うかもしれない。

実はそうかもしれない。



「年功序列」というのは釈迦が敷いたモノらしい。



仏教のグループ内でのエラさの順を、能力や功徳、功績の量で変動しうるようにすると、
組織内で争いが起こる。 派閥が生まれる。 足の引っ張り合いが起こる。

出世欲、名誉欲に囚われたゲスな人間がしょうもないことをする。
その結果、ありとあらゆる、ロクでもない事が起こる。

(実際、釈迦の元にもダイバダッタみたいな小さい人間がいた)
(まぁ現代の新興宗教なら、ダイバダッタみたいな人間がリーダーの方が成功するのだろう クソが)


それでは組織が崩壊するし、なんのための教えだか分からん。

だから、人のエラさは「入った順」という、「年齢ですらない」、「絶対に変化しない一次元の基準」で統一することにしたのだ。


こういう発想が、「組織のための人」ではなく「人のための組織」には必要な気がする。


勿論
競争社会の中では年功序列制の組織よりも能力主義の組織の方が「伸びる」のだろうが、
それはなんのための「伸び」なのかということになる。 

それは組織自身のためだけの「伸び」であって、人に還元されるのか、ということになってくる。

結局、過当競争でみんなが不幸になっている世界じゃないか、一体誰が悪いのか、ということになってくる。

皆で同時に競争を鈍化させたらどうなんだ、ということになってくる。

みんな少しはなまけろ。 (ニートが言えたセリフだろうか)


(この話、学歴社会、受験戦争についても同じことが言えそうだ)
(自分は勉強に関しては真逆のこと言いたいが・・・)


で、まぁ大体そんな感じなんで、
もう別に特に結論もなくこんな感じで終わって良いのではないかとか思ったりもするのだが、

もうちょっとだけ、「個人の出した結果から運の要素を排除して評価する」話について、食いついて見ようと思う。



これについて考えていくと、最終的に行き着くのが、
「人間はセレンディピティをどれくらい評価するべきなのか」という発想になってくる。


多分、こんなバカなことを考えているのは自分くらいだろう。 
ノーベル賞に唾吐くようなこと、普通、誰もこんなことは言えない。



でも絶対にそうなってしまうのだ。


「人生の勝者は皆リスクを取っている~」みたいな「半分だけ正しい人生訓」から、
「生存者バイアス」を排除してを突き詰めていくと、
「人生はパチンコである」という真実が見えてくる。

そして「人生はパチンコである」という考えが極まると、
人間の功績から運要素を排除する必要性について考えだすようになる。


そして次に気になってくるのが、人類がこれまで成してきた発明・発見の多くが、
物凄い「単に運」に恵まれただけの発明・発見であったという事実に注目するようになる。


すると、彼らはどれくらい偉大だったのか、
別の並行世界で発見出来なかった歴史に埋もれた人達へのフォローは無いのか?みたいなことが気になってくるのだ。


で、まずは「セレンディピティ」について。

まぁググれ。


本当に、運・僥倖でしかないような、偉大な発明発見が世界には山程ある。


マラリアの特効薬を探そう、なんとなくこの葉っぱ苦いから使ってみよう。
そこから偶然サリチル酸が取れたりする。


そもそも「ノーベル」の発明したダイナマイト自体がセレンディピティだったりする。


で、こないだの日本人のダブルノーベル賞受賞。

あの時から思ってたのだが、
ノーベル賞とかにかぎらず、発明発見の偉大さには「二種類」あると思うんだ。



片方は、
ニュートリノの振動の発見により、ニュートリノに質量があることを示した。

片方は、
地中の微生物が持つ能力を偶然見つけてそれを特効薬にした功績。


これらは、方向性が違う気がする。


何か解明すべき目的があって、そこを理詰めで目指している研究と、

何かブルドーザー的にあらゆるものを分析して、そこから人間に役立つモノは無いか探す研究。



解明系の研究と、
観察系の研究では偉大さが違うのではないか?
みたいなことを考えてしまう。
(すぐに直接人々の生活に活かせるのは後者だが・・・)



前者のような研究は、何か物凄い天才が必要だったり、
「その天才が産まれなければ数十年は研究が遅れていた」みたいなことが言われる。


一方、やはり後者は運の要素が強い。
共同研究なら、誰が最初に見つけててもおかしくない。
 
どこの国のどこの研究所の誰が見つけてても良かったし、
言ってしまえばその人が産まれなくても、後々に別の誰かがいずれ見つけていただろう。
「見つかるのは時間の問題だった」みたいなこともよく言われる。


本当に、天から降って湧いたような効果をたまたま調べた土壌の中から見つけ出すのである。



勿論
その「偶然」を「掴む」ための「姿勢」が大事だと、そういう姿勢が偉大なのだと言うのだろうが、
やはりそれでも最後の最後は「運」だと思ってしまうのだ。



そもそもセレンディピティについてこう言われている

「観察の領域において、偶然は構えのある心にしか恵まれない」と。



これはまさにさっき↑でも書いた
「人事を尽くして天命を待つ」とか
「成功した者は皆すべからく努力しておる!!」にも通じる考えだ。



でも、やっぱり、それでも、セレンディップの女神が誰に微笑むかの最後の最後は、「運ゲー」なのだ。


そうやって考えると、
こういう基礎研究で本当に大切なのは

「最初に偶然見つけた"個人"が誰か」とかいうことではなくて

そういうブルドーザー的活動を支える研究機関が世界にどれだけ広く用意されているか、ということではないかと思うのだ。
(だから結果を出せなくても研究費というのは必要なんだ)



最終的に「運」を掴んだ個人が誰かという問題ではなくて、
とにかく人類にとって有効な物を見つけ出せる「体制」を広く構えることが重要なのではないかと。



世界全体を俯瞰で見れば、人間が大量にうごめいて、何かを探している。
たまたま引っかかった誰かが、最初に何かを見つけたということになる、それだけのことに思えてくる。

所詮、サルが雷で燃えた木片を最初に手にするようなモノなのである。

その「最初の誰か」が誰であるかということは、そんなに重要なのかと。



そうやって考えれば、
やはり観察系の研究の成果を、一人の人間を祭り上げることで称えるのは変な気がしてくるのだ。


あと
自分が気になるのは
観察系の研究って、他の近いところにいる研究者からの嫉妬とか凄くないか?とか思ってしまうことだ。


努力していること自体は十分条件である。

が、最後に必要なのは運である。

じゃあその「運」に「恵まれなかった人」は偉大ではないのか? そんなことが気になるのだ。



「アイツが最初にあの効能を持つ微生物を見つけたから今評価されてるけど、
 それがオレでもおかしくは無かったはずだ!」

「オレだって同じようにずっとこの研究に没頭していたのに!」

「最後の最後で運かよ!!」

・・・
ってな感じで逆恨みしている研究者とかいないのだろうか、とか妄想してしまう。



でもまぁこういうのはアレですよ。

ミステリー小説の動機のネタにしかなりませんよ。

研究者同士の嫉妬が高じて殺人事件になっちまうのですよ。

なんのこっちゃ。


ハイ。 この辺で終わり。

最終的に格差とか全然関係ないし、そもそも途中の段階でも格差の話なんかしてないかもしれない。



何が言いたかったのか全くわからない文章、何か読み取れた人は凄いと思う。



でもさぁ、どっかで浮浪者とか人生の落伍者とかを捕まえて、

「お前ちょっと人生についての最終結論語ってみろよ」って振ってみたら、

案外みんな、こういう話ができるのかもしれんぞ?




つまり

そういうスタンスでこれを読んで欲しい。

これは1ニートが思っている、

なんとなくの、人生観、

なんとなくの、人生における失敗・成功についての話、

なんとなくの、その評価のありかたについての話なわけだ。





「ここにコイツのルサンチマンが現れている」とか、

「こういう思考だからこういう奴はダメなんだ」とかでも別に良い。



酔っぱらいのホームレスがグダグダ説教するのを聞いているようなスタンスで
ここから何かを感じてほしい。

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[ 2015/11/28 19:23 ] 駄文 | TB(0) | CM(4)
ノーベル賞という「目標」があった方が、偶然を見つけるモチベーションが続くんじゃないかなと思いました。研究者も人間ですしね
競争した方が効率の良い方法も生まれるし
[ 2015/11/29 00:27 ] [ 編集 ]
コメント返信
> ダウニーさん

> ノーベル賞という「目標」があった方が、偶然を見つけるモチベーションが続くんじゃないかなと思いました。



まぁ本来そうですよね。 「人類」視点でみればそうなのかもしれません。 そしてノーベルの狙いも。

でも何故か自分は、「おしい所で運を手に出来なかった人」視点で考えてしまうのですね。



あと
でもなんか、ノーベル賞を貰うような人はみんな決まって
「別にノーベル賞目当てで研究したワケじゃない」
「急にこんな賞をもらって驚いている」とか言うんですよね。


ノーベル賞目当てで研究するというと、なんかどっかのお国みたいで、
何故かそういう国に限って賞を取れなかったりするんですよね。
これは不思議なモンです。


[ 2015/11/30 16:08 ] [ 編集 ]
初コメさせて頂きます
上で述べていた玉を打つ賭け事(NGワード含まれるため、このように変換しました)は、やったことはないのですが、単なる確率らしいですからね。
平日の出玉上昇率*朝早くから行って出る台に座れる確率上昇*穴に入りやすい釘の配置の台の記憶*台の設定*出なかった時の昼時点の切り上げ。
この中で、事前に知ることの出来るのは、最初3つまででしょうか。
台の設定は、昼まで打たないと分からないでしょうし。

まぁ問題は、確率を上げる方法を知ろうとすることと、知らないままでいることは、結構な違いがあると思います。

つまり、玉を打つ賭け事をギャンブルだと思っている世間一般的には、『運=ギャンブル』という図式は適当であるけれど、冷静に考えるとプロがいるのだから、私自身は、知識によって運が変動するようなこの例は適当ではないと思いました。むしろ、玉を打つ賭け事以外の方がギャンブルのように思えます。(特に10年以内倒産率の高い起業)

ただ、ノーベル賞の場合は、分かりません。
個人的には、精密な実験による試行回数でしか成功する可能性が上がらないと思われるため、(意図的な天下り経費でない限り)、ByNEETさんの言う通り、運ありきの職業で失敗してしまった場合は、何らかの補助が出るべきだと思います。

が、一つだけ。自分でリスクを負って成功する人、失敗する人。両方ともそれなりの人生を歩むんじゃないかと。エジソンに特許を安値で売った発明家(エジソンの特許は、既存特許の改良特許が多い)だって、エジソンが去った後、裁判でお金もぎ取っているらしいですし。人間は、卑しくたくましい生き物だと思うので、恵まれないように思えてもByNEETさんが心配する必要もないように思います。
[ 2016/01/01 00:58 ] [ 編集 ]
コメント返信
> 名無し さん



> まぁ問題は、確率を上げる方法を知ろうとすることと、知らないままでいることは、結構な違いがあると思います。
>
> つまり、玉を打つ賭け事をギャンブルだと思っている世間一般的には、『運=ギャンブル』という図式は適当であるけれど、冷静に考えるとプロがいるのだから、私自身は、知識によって運が変動するようなこの例は適当ではないと思いました。むしろ、玉を打つ賭け事以外の方がギャンブルのように思えます。(特に10年以内倒産率の高い起業)


確かに「傾向と対策」でかなりなんとかなってしまうのであれば、
「パチソコ」という例を使うのはむしろ正しくなかったかもしれませんね。



パチプロって何をしてるんですかねぇ。


自分の思う「パチプロ」というのは、デタラメな必勝法とか法則を唱えて、

それをパチソコ雑誌に書いて、

プロだということで店に設定を弄ってもらって、

それを打って、それで勝って、

その様子をまたパチソコ雑誌に書いて、

それで宣伝になるっていうんで原稿料やら宣伝料やらもらって、

そういうお金で生きている・・・というのが自分の思うパチプロ像です。

(歪み過ぎでしょうか?)



で、パチプロの唱える必勝法というのは、相当デタラメなことになってるらしいです。

(まぁ本当に勝てる方法なんか伝授する訳ないか)



こうやって考えると、パチプロというのも弱者をデタラメな情報で騙して食っている悪い人、
ということが見えてきてしまいます。


インチキ宗教の教祖様とあんま変わらんかなとおもいます。


[ 2016/01/07 14:36 ] [ 編集 ]
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