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人間の最後の砦とは

 
どんどんブログがテキトーになっていく。スマンね。


でも今月と来月に限っては仕方ない。 (諦め)


今月はもう、毎日「謎解き」ステージを作る以外、なにもしていません
で、来月には問題100問ほど作って、もうこのプロジェクトを完成させて終わらせたいです。



そんで、ダクソ3を迎えたいのです。


で、
My life is completed! なワケです。 いわゆる。



だからそれまでにブログに書くことなんて、本来、一切、ねーわけです。


それでも更新するなら「寝言」みたいなことしか書けないワケです。
(いつも寝言なワケだが)


頭の中で寝言みたいなことばっか考えているワケだが。
その寝言をそのまま出力してみようかとも思うワケだが。



 

最近思うこと。

ゲーム系の文章を書くと怒ってくる人が結構おられる。

最初の内はまぁまぁ「慇懃無礼」くらいの人だったのだが、
それが一気に「ああ単に馬鹿にしたいだけなんだな」って感じで態度を豹変させてくる人もいる。

ああいうのは何なのだろうか。



前にフォールアウト3の感想文を書いたら
まぁあの内容に怒ってる人もちょくちょく現れるわけで、
個人的な感想文を引っ張ってきて「お前の感性がおかしい」みたいなことを言われた所で

「はぁそうですかそれならそうなのでしょうねあなたの中では」

ということにしかならないわけで、


あれは別に作品の「レビュー」とかでもないし 

(そもそも「レビュー」ってどういう意味だ?)
(たまに物凄く簡単な英語の意味すらわからなくなる)
(英単語の意味を、ネイティブが感じているのと同じようなクオリアで体得できるものだろうか?)


自分の書いたああいう感想文が存在することで別にゲームの価値が上がったり下がったりするわけでもないし。


それでも
ああいう感想文を読んで腹を立てたいのなら、
世の中にはもっと酷くてぼろくそに貶している感想文があるのだから、そっちを優先的に怒って来てほしい。


http://ameblo.jp/kusowii/entry-10509835463.html


世の中は案外こういうモノで溢れている。


それなのに、なぜよりにもよって自分の糞ブログに訪れて、
自分のクソ感想文に文句を言ってくる人が現れるのか、そうやって考えると不思議な感じもする。



(それとも自分はこの一期一会をもっと有難がるべきだろうか?)

(ちなみに、前回の、
 「ニコニコ動画の実況内でのダクソ2の悪口に自分が腹を立てている」という事と、この事はそんなに矛盾しないとは思っている)


(要はああいうのは、フジマロさんが楽しんで遊んでいる実況動画の中で、そのゲームの悪口を書くという行為)
(それがイカンと言っているわけだ)

(それ以外なら、個人が自分の場所でダクソ2のことをボロクソに言った所で自分はわざわざ怒りに行ったりはしない

(サイコブレイクにせよ、ダクソ2にせよ、ブラッドボーンにせよ・・・)
(結局フジマロさんがニコニコ動画に嫌気が差すまで、彼らは人の動画上で好き勝手いうことを止めなかったワケだ)


で、実際どうなのだ?


人間というのは結局「共感」を求めているだけなのか?


フォールアウト3を絶賛したい人は、フォールアウト3を絶賛しているブログを読みたいワケなのか?

そんな人が何故かこの糞ブログにやってきた。

だが、この糞ブログに書かれているのは、何やらよく分からんひねくれた内容。

で、腹を立てて、コメントで怒っちゃうのか?



これが良く分からない。

自分が逆の立場だったら、そんなことはしない。

(自分は人のブログで議論しようとか最初から考えたりしないのもあるが)
(これは性格の問題か?)
(やはり他人の場所での他人の趣味趣向になんか言う気にはならんのだ)



そんなに「共感」がしたいのなら、絶賛しているブログを読みに行けばいいじゃないか。
きっとそんなのだって他所に一杯溢れている。


逆に、そんなに糞ブログを叩きたいのなら、
もっと他所に最強にボロクソに叩いているブログも一杯あるはずだ。



どっちにせよおかしいじゃないか。

・・・
それなのにこのブログを標的にして叩くということはどういうことか???


こうなってくるともうこれは、
「敵のランクとして調度良いから」という解釈しか、自分には出来ない。


自分は「雑魚」のように見えるから、狩られているワケだ。


このニート程度なら説き伏せられそうだから、

このニート程度なら論破できそうだから、

このニートに啓蒙してやろうと思って、「お前のゲーム感想文はおかしい」と突撃してきているワケだ。




じゃあ、そんな「雑魚刈り」をしてきている人を相手に、自分はどう立ち回ったらいいのか?

「ハイそうですか」といって、そのまま啓蒙されなきゃならんのか?

喧嘩しかえすのも面倒だしなぁ。 
(結局、たまにしちゃったりするが)

(だけど最近はコメント消すことも多いよ 悪いけど 
 でも、「何故喧嘩腰のコメントを消すようになったのか」に関してはちゃんと理由があるので、それについてもいつか書きたい)


自分には、そういうコメントには、自分のクソ文章と同じように、大した説得力があるようには思えない。
(まぁ所詮、糞ブログに脊髄反射的にコメント書いちゃう程度の人だから、そうなっちゃうのか?)
(我ながら酷いこと書いてるぞ)


つまり、
別に無視してもいいんじゃないのか?


なぜ、いうことを聞かなきゃならないのだ?


・・・
みたいなことを布団の中で考えてしまう。


ブログに喧嘩腰のコメントが付いていると、(特にゲーム系の記事に多い気がする)
自分はイチイチこんなことを考えてしまうのであった。
落ち込むというより、相手の人生について考えこんでしまう。


勿論。 真逆のことも考える。



こういう考え方では、自分としてはあまりに「反省」というモノが無い。


完全に開き直って
「人間にはクソな感想文を撒き散らす権利があるか・無いか」とまで行くと、

まぁ、どこまで行っても人間は自由だから、多分そういう権利は「ある」わけだが、
コメントを全て突っぱねているのもそれはそれでワンマンすぎる気がする。

(クソミームで世界を汚染してはイカンワケだ)

(だからどこまで行っても自浄作用は必要なのだ)

(だがなぁ、なんでゲームの感想文書いただけで人格否定みたいなこと言われなきゃならんのだ?)


・・・


というような感じ。 これが寝言1


ここからは寝言セカンド


フォールアウトの感想文では


「選択肢とはなんぞや」

「ロールプレイとはなんぞや」

「ナラティブとはなんぞや」


という内容に切り込みそうで、実は全く切り込んでいませんでしたが、
こういうことに対して、別方向から考えてみようかと思う。




こういうことについて考える場合、
もう、一気に「究極の理想像」を想定してしまうのだ。 その話。



究極的に自由な選択肢を取ることができ、且つどのように分岐してもストーリーが面白く、そしてロールプレイも破綻しないゲーム。


そんなモノは、ありえるだろうか???


例えばありがちな洋ゲー。

いくら表面上の自由度を高めていった所で、
メインクエストは一本道だったりする。
結局お使いだったりする。

メインのお話は実は対して目新しくも感動もなく、それ以外で寄り道したり

なんかテキトーにサブクエしたり、なんか自分のキャラのロールっぽい悪人プレイとか善人プレイとかして、遊ぶもの。


このままでいくら進化していった所で、ストーリーの部分でアウトである。



じゃあありがちなJRPG。

一本道だが、話は滅茶苦茶面白かったりする。 (モノによる)

主人公がやるべきこと、しゃべるべき内容、そういうキャラクター性はほぼ固まっている。

このままでいくら進化していった所で、いわゆる 自由度の部分でアウトである。


バルマムッサ
バルマムッサの選択

物凄い衝撃的な選択肢を迫られ、後に幾つか大きくストーリーが分岐する場合もあるが、

まぁそれはシナリオライターの努力と腕によるものであり、

結局ある程度の大きな枠組の中で分岐しているだけのことである。



この両方が両立するということはありうるのか?


自分は
ありうるだろう、と思う。 


というか、「ありうるとしたら、それはどのようなモノか?」ということについて考える。


自分の結論としてはこう。

それは、シナリオライターさんの首根っこを捕まえて

「おい、このゲームにはこんだけの選択肢しかなかったけど、
 もしここで主人公がこう動いたら、実際は次どうなるんだよ?」
とか質問して、
その場で本気で面白い展開を考えてもらうような 「対面でのお話作り」 。


そういったモノに一番近い形態になるであろうということ。



・・・つまりそれはAI作りになるのである。


AIに、ここでこういう選択肢をとった場合、
「どうすれば破綻せずに且つ、面白い展開を起こすことが出来るか」 を常に考えてもらう必要があるわけだ。


シナリオごとに面白い分岐とかを用意するのではない。

常に面白い軌道修正ができるようなAIを用意するのが本当に目指すべき目標だと思うのですよ。



現状でもそういうことにちょっとだけ触れているようなゲームもある。

自分の知っている範囲だと、

ガンパレード・マーチとか

エヴァ2とか

忍道戒とかである。

(あと、ステストの「くもりクエスト」なんかもちょっと違うけど、こういうこと考えるキッカケにはなったかもなぁ)
(あれはTRPGをAI化してデジタルゲームにしたようなモノ その発想が凄い)



全て共通点がある。


・シバムラティックバランスとか
・庵野AIとか
・ハラキリエンジンとか 

そういう「キーワード」が出てくる。


つまりAIによるシナリオ管理をやろうとしており、それが「ウリ」であるということだ。 そういう姿勢がある。
(成功しているかどうかはともかく)


AIが常に、
プレイヤーがこう来たら、現状はこうなっているから、
ここでこう返すのがシバムラ的だろう、ここでこうやるのが庵野監督的発想だろう、ここでこうやるのが・・・

ということがやりたいということだ。
(成功しているかどうかはともかく)



というわけでやはり
クリエイターの脳みそを、デジタルクローンのように移植・拡張・高速化して

その人と対面で語り合って「じゃあここでああやってたらどうなっちまってたんだよ!」というのを問い詰めたとき

AIパワーでその人の最終結論のようなモノをリアルタイムに捻り出すことが出来る、

そしてその路線変更に対応できる、

そんなAIとシステムが構築出来たときが、ゲームの中身がマジで進化するときだろうと思ってたりするのです。


(前には、 2D → ポリゴン → 粒子 という進化の話をしたことがあるが)
(今度はストーリー面での真の進化での話)


それまでは、洋ゲー独特のメインクエストの盛り上がらなさとかにも我慢するしかないのかなぁ、という現状なのです。


なんのこっちゃ。
でも寝言だから。 自分はいっつもこんなことばっか考えながら寝てる。


でもこういう話は
結構恐ろしい話でもある。


これはもう、最終的にはAI自身が 「自分でシナリオを創造できる」というとこにまで行き着きうることになる。


つまり、AIが「創造性」を手に入れるということだ。

(そしてそれが出来なければゲームは一歩進めないということでもある)




これはもう、この一文だけで、もう、おっそろしく すんごいことなのだ。


「人間の最後の砦」 とは、 一体 何だと思うだろうか?



「知性」だろうか? 

(チェスや将棋や囲碁で、ドンドン人間のプレイヤーは負けてきている)
(将来、絶対に何をやっても勝てない時がくるだろう)



それとも、「SEX」だろうか? 「排泄」だろうか?

(なんでこんな汚いことを言っているのかというと)
(これは諸星大二郎先生がある意味言っていたことだからだ)
「コンプレックス・シティ」より抜粋)

(AIが「笑い」という領分を犯そうとしてきた時の話)
(その中で、「人間の最後の砦はSEXと排泄だ」という主張があったのだ)


自分は、「単純な知性」だけでは絶対にいつか人間はAIに勝てなくなると思っている。

だから自分にとっての答え。

AIが人間の出来ることをどんどん奪っていく果て、

その際の「人間の最後の砦」は、「創造性」だと思ってたりするのです。

(もう既にそこも危うそうだけどね)
グーグル先生が写真を犬と魚化するAIを作ってたりする コワイ!!)


その「創造性」の部分すら、 場合によってはAIに丸投げしなければ限界があるのではないかという分野があるわけです。


さてどうすべえか。



将来、

「どこどこのAI会社が開発したシナリオAIによって作られたあの新作映画!
  本っ当に、ストーリーといい、伏線といい、何から何までスンバラシイから絶対見たほうが良いよ!!」



みたいなことが言われるようになると思う。 (これはマジで)


(だって現状ですら、
 ハリウッドの映画とかは「方法論」でシナリオをレシピのように組み立てて作ってたりするわけだ)

(主人公にはこういうハンディキャップを持たせる・・・)
(主人公にはこういう家庭的問題を抱えさせる・・・)



そうやって計算ずくで作られた映画が案の定面白いことを、自分は否定するわけではない。
これは究極的には「センス」を「天才」を特に必要としない枠組みを構築するということだ。

そしてそのやり方は多分正しい。

で、その効率化は、最終的にはAIによるシナリオ生成にたどり着く筈だからだ。

そしてその頃には
「ハリウッドの映画ってなんかテンプレみたいだよな」
「主人公がまたあんな風にハンデを背負っててさ・・・」

みたいなことすら「感じさせないほど」巧みなシナリオ生成をしてくるに決まってるからだ。


今、人間の将棋の騎士がAIに勝つか負けるかとかで話題になってたりするが、
自分的にはまだまだ大した問題では無いと思う。


将来は、
創造性の分野で、人間のシナリオライターさんが肩身の狭い思いをする日が来るかもしれないんだ。


これは絵空事ではなく、マジでそう思っている。



そんなときに自分はそれを心から歓迎できるのかどうか、良く分からない。
こんなこと書いておいて、わからない。



マナティーが運ぶアイディアボールで組み合わされたシナリオを
口をぽかんと開けて歓迎するだけの人生でいいのだろうか?


本当にそれでいいのか?


もはや何の話をしていたのかすら、わからない。


最初はコメントが面倒くさいということだったのに、もはやわからない。

だがこのクソ文はボツにしておかない方が良いような気がした。

次の記事のためにも。

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[ 2016/04/04 08:41 ] [ 編集 ]
叩いたり怒る人はニートだから、が理由じゃないと思います。ニートに囚われすぎじゃないですかね…
[ 2016/04/07 10:09 ] [ 編集 ]
コメント返信


コメントどうもです。


> 最後の砦は、不完全であるところでしょうか。



自分もこういうことを考えてますよ。


「忘れる」とか「知らない」ということが実は凄い機能なんじゃないかということについて考えてたりします。


AIのように全てを吸収 全てのデータを考慮 全てを把握・・みたいにして強まってく知性の果ては
なんか全ての人間の知識を合成した「白色光」のような知性になってしまって、
そこには個性もへったくれもなくなるのではないか みたいなことを考えたりします。


一方人間は 自分の言ってたことすら忘れたり、 絶対に学習しようとしない分野があったり、ムラがあります。
そこんところが個性になるんじゃないかなぁと思ってたりするのです。



将来、「デジタルクローン」が活躍して

死んだ作家さんの大量のデータを学習して その作家さんの新作を作ったりすることとかも起きてくると思います。

(ていうかこないだ AIが「レンブラント」の新作の画を描いてましたよ ほんと凄い時代ですね)



そういうとき、

「作家さんが自分が過去に書いたこと忘れてる」 というのをどれくらい再現できるか

ということを考えると、 怪しいもんだと思ったりするのです。




漫画家さんが過去の伏線を自分で忘れる。 なんかミスをする。 セリフを間違える。

そういうのは作品の欠点でもあるけど、またなにか愛嬌、魅力のようにも感じられるのですよね。


『大人は嘘つきではないのです。間違いをするだけなのです』


AIに創作をさせた場合、こういうことが起きないとおもう。

もしくは「わざと」ミスさせるしかない。

「わざと」。

これが出来るのかどうか、 やるのかどうか、

例えばまさに荒木飛呂彦先生のデジタルクローンを作ったとして、そういうことをわざとやれるのか?

そしてそういう「わざとのミス」というのは作品としてアリなのか?



「わざとじゃなくミスを出来るのが人間の最後の砦」

そんな風な考えもあるかもしれません。

[ 2016/04/09 16:54 ] [ 編集 ]
コメント返信


> 実家から出ず家賃や光熱費を一切払うことなくパラサイト、もといニートをしながら仕事をするのもありなんじゃないでしょうか。何か収入を得ている兼ニートです。今や就職は難しい時代なので、いつ働いても一緒ですよ。

そういって貰えるとまぁ安心しますが。


もう全ての職業をAIや機械に奪って貰いたいですね。
そうしたときに初めて人間は次のステージに進める気がします。



> オアシスさん

> 叩いたり怒る人はニートだから、が理由じゃないと思います。ニートに囚われすぎじゃないですかね…


となると
自分が叩かれたり怒られるのは 別の理由のせい ということになってくるんですが、

「それは自分の性格がムカつく奴だから」とかそういうのしかないかと思いますが つまりそういうことですかね。


そういう点でも
「ニートを名乗っておけば自分が嫌われる理由はそのせいだと思いこめる」ということかもしれません。



[ 2016/04/09 17:03 ] [ 編集 ]
なんでや!
コメもらえるだけ有難いやろ!
クッソ〜うらやましぃ〜
閲覧されてることがすごいんよ。
つまり貴方は凄い!
はい論破!
[ 2016/05/21 21:33 ] [ 編集 ]
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